雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

そんなことは、昔から言うべきではなかったのだ。

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武田砂鉄氏の寄稿を読んで。武田氏の主張は基本的に理解できるし、特に、

 

「なぜ、これまでは何も言われなかったのか」という観点がすっぽり抜けていたりする。これまでもダメだったのかもしれないのだ。

これまで自由に使えていた言葉が制限されると、自分たちが不自由になったと感じる人がいる。(略)その時、真っ先に、「これは、これまでもダメだったやつではないか」と考えなければいけない。

 

ここは特に重要な視点で、読んでハッとさせられた。そう、他者の心を傷つける言動は、社会の変化に関係なく、古かろうが新しかろうがすべきではないのだ。分かりやすい例として石原氏の言動を挙げているが、武田氏の言いたいことは理解できる*1

 

ただ一方で、そう簡単な話でもないよな、とも思う。私と他人は別の人格なので、本当のところは相手の心の中までは分からない。また、世の中は他者を傷つけたくて発言する人ばかりではなく、想像力が足りなくて、または人間性の断絶によって不可避的に他者を傷つけてしまうことも多々あるだろう。

 

また、例えば言葉狩りのように、本当にそうなのかどうかも分からないような人の無意識に潜む(とされる)思想を勝手に切り出してその差別意識を糾弾する手法や、あるいは文脈を無視して特定の用語のみを切り抜いて強調することでレッテルを貼る手法などを思うと、コミュニケーションの難しさ、重たさを感じてしまう。

 

何でもかんでもセクハラになっちゃうんだからたまったもんじゃないよ、と吐き捨てる人は、どういうわけか、セクハラにならない限界点を知ろうとする。「髪切った?」はいいのかな、「このあと、彼氏とデート?」はいけないのかな、といった具合に。「相手がどういう気持ちになるか考えてみましょう」と、小学校で習ったようなメッセージを改めて送りたくなる。

 

武田氏は「どういうわけか、」と批判的に書いているが、これはそれほどおかしなことだろうか。例えば自分の価値観が社会のそれとずれていることを指摘されて、そのことを真摯に受け止めようとするならば、当然、新しい(正しい)判断基準を知ろうとするし、正確に認識しようと思えばその範囲を確認しようとするのは普通だろう。セクハラのギリギリを狙いたいからではなく、自分と異なる価値観を持つ他者を不快にさせたくないと思うからこそ、どこまで言ったら不快に感じる人がいるのだろう、と質問する人が批判されるのはおかしい。

 

「相手がどういう気持ちになるか考えて」と小学生の頃から言われてきたが、残念ながらどこまでいっても人の気持ちを理解するのは難しい、という結論にしか至らない。価値観はひとつじゃない。自分が正しい側に立っているという絶対的な自信は持てない。現代的価値観が正しく、古い時代の価値観が誤っていると断定することもできない。やっぱり、コミュニケーションは難しい。それでも、分からないなりに相手の気持ちを考えようと努めて、コミュニケーションを諦めない人こそが素晴らしい。ただ、それだけを思った。

*1:ただ、文章の後半は、石原氏などを断罪したいあまりに攻撃性が高まり過ぎてブレてしまったようにも感じる。