人は多数の仮面を持っている。仮面とは、言い換えれば、立場/役割/キャラクター/パターン化された言動、そういったものだ。人は仮面をたくさん持っており、状況に応じて付け替えている。それが社会的環境に対応するということだろう。
仮面の数は、人生経験に比例する。新しい環境や他者との関わりが新しい仮面を生み出す。その他にも、他者のもつ仮面を見て好ましいという感情を抱いて、その仮面の複製を作ることもあるだろう。例えば小説を読んだり、映画を観たりして。
仮面の数は無数に増え得る。ただし、仮面の取捨選択は一定のパターンに収斂していくだろう。ある場面に応じてどの仮面をつけるか、これは他者によって強く影響を受ける。いや、仮面の選択は自分が決めるというより、他者によって決まるといった方が正しいかもしれない。具体的には、その仮面をつけたときの他者からの評価が、成功または失敗という経験となって蓄積されてフィードバックし、失敗という評価を受けた仮面は使われなくなり、成功の仮面が選択される回数が増えていく。この結果として起こる、状況に応じた仮面の取捨選択傾向が「その人らしさ」であり、それはその人の人生経験、しかし見方を変えれば過去に受けた他者からの評価によって規定される、オリジナルなものである*1。
さて、仮面をつけている自分は「本当の自分では無い」のだろうか*2。仮にそうだとすると、「仮面をつけていない」=「本当の自分」はどこにいるのか。本当の自分は、おそらく自分の外にはいないだろう。とすれば、自分の中にいるのかもしれない。それでは自分の中とはどこか、それは他者からの影響を受けない、他者の評価を反映(意識)しない、孤独な環境によって発見することが出来る何物かのことを意味するだろう。山奥に篭って、誰とも会わず、本を読まず、言葉を用いず、鏡を捨てて、意味を手放し、意識(自己?)を放棄または忘却する直前にようやく出会えるものではないだろうか。それはひとつの幸福のかたちではあるのかもしれない、とそんな気もするのだが、果たして私は「本当の自分」と出会って何がしたいか良く分からなくなってきた。
閑話休題。私はたくさんの仮面を持っている。「私が変わる」というとき、実際には私そのものが変化して何か新しい別の物に化けるわけでは無いだろう。それは結局、新しい仮面を手に入れて、仮面の取捨選択パターンが変わるということを指す。どれだけ私が「生まれ変わった!」と信じたくても、「古い私」は死にはしない。一度手に入れた仮面は捨てることが出来ないし、突然つけてしまうこともある。ただ、たくさんの失敗を繰り返して、またはもっと素敵な仮面をたくさん手に入れることによって、その仮面の登場回数を減らすことは出来るかもしれない。
こう考えてくると、他者の人間性を評価するということの困難さに絶望してしまう。まず、仮面を剥ぎ取った「本当のその人」には私は出会うことは出来ない。一方、仮面はたくさんありすぎて、どの仮面で評価すれば良いのか分からない。更に、その人が新しい経験を積み重ねていくうちに、私が知らなかった別の仮面を手に入れてしまうことも十分にあり得る。
先に、仮面の選択傾向に「その人らしさ」が現れると書いたが、しかしながら私が他者を評価するときには、「その人らしさ」よりも最も印象深かったひとつの仮面で規定してしまうことが多い。他人の「その人らしさ」を把握するまで丹念に分析するほど、人は暇ではないし忍耐深くもないし、何よりそれほど論理的な生き物ではないだろう。人間の評価はある一瞬で決まってしまう。第一印象で、軽はずみな失言で、調子にのった浮かれ具合で、単なる偶然の優しさで、危機に陥ったときにのみ発揮される勇敢さで、ありとあらゆる側面で評価されてしまう。そこは、まあ、そういうものだと受け入れるしかないが。
ただ、ある特別な人、つまり「その人らしさ」をなるべく正確に把握するためにどれだけ時間をかけても良いと思えるような相手に対しては、出来る限りたくさんの仮面と向き合うべきだろう。好ましい仮面もたくさんあるだろうが、不愉快に感じる仮面も、きっとその人は無数に持っている。どれだけその仮面の種類が多いのかということ自体も重要な問題であるし、それらの仮面の取捨選択の傾向をこそ丁寧に見ていくべきだろう。更には、パターン化されて固定する「その人らしさ」を壊し、新たな仮面を手に入れて、より良い(状況に適応できる)パターンを手に入れようと模索しようと挑むことが出来るかどうかも大事な問題だろう。もちろん、他者に求めるのであればまず自分自身がそのように生きようとしなければいけないけれど。
誰しも好ましくない仮面を持っている*3。そして、その仮面を誤まってつけてしまうこともある。たくさんある。そのときに、自分の失敗を認められるか、他者の批判を受け入れられるか、慣れ親しんだ仮面およびパターンを乗り越えられるか、そこに成長につながる鍵があるのではないか、蒸し暑い夜にそんなことを考えてみた。