雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

鬱になりがちな視野狭窄と、あえてピントをずらす人生の知恵

 「腹が減っては戦が出来ぬ」という諺がある。この言葉は単純に「ご飯を食べて元気に活動しよう」ということだけを意味するのではなく、どこか呑気さと、そして大人の知恵が隠された言葉なのかもしれない。


 「人間はいつか必ず死ぬ。死ねば全ては消えて無くなる。だから人生は、そしてこの世の全ては無意味かつ無価値である。」という発想は、筋が通っていると私は思う。論理的だとすら思う。しかし、人生はそう単純ではないし、そもそも論理的なものでもないし、何よりそれほど短くない。たとえ死ばかりを見つめてみたところで、どうせまだ当分は生きなければならない。そして、「死を前提とすれば全ては無価値」という「正しい理屈」は何の役にも立たない。例え無価値な人生であっても、もうしばらくは生きていく以上、死を考えるのではなく、どのように生きるかということを考えていかなくてはならないのだ。それに、「何のために死ぬべきか」とか、「死に場所を探す」とかいうことを考えるには、幸か不幸か今の日本は平和過ぎる。


 例え頭の中で悶々と「いつか来る死の恐怖」と闘っている人であっても、街中を歩いて金木犀の香がしたらほっとするだろうし、100グラム3000円くらいのステーキを食べれば幸せを感じざるを得ないだろう。一方で、幸せの絶頂でこの世の春を満喫しているような気分の人だって、指の爪と肉の間に針を刺されたら絶叫して苦しむだろう。人の気分は簡単に左右されるし、人間の運命はある程度(大半かもしれない)偶然で構成されているし、人生は一つの方向だけを向いて走り続けるものではない。


 あるひとつのことに集中したり、真剣に悩むことは本来は良いことだ。しかしながら、物事の解決というものは、決して一本調子にいくものばかりではないし、解決にはとてつもなく長い時間がかかるものもある。そして、人生と言うものは複雑で、重層的で、そもそも意識が全てをコントロールできるものではない。そう考えてくると、現実逃避や気分転換、その場しのぎの対処療法など、「真正面から向き合わない」発想は、必ずしも否定されるものではないのではないか。もちろん、困難から逃げていても問題は解決しないのだが、だからと言って真向勝負ばかりが正解ではない。


 腹が減っては戦が出来ぬ。やはりどこかとぼけた感じのする言葉だ、これから死ぬか生きるかの場面に行くのに、しっかり作戦を練ろうとか、武器の手入れをしようとかではなく、呑気に飯を食おうというのだから。でも、それがかえって正解だったりすることもある、という話。物事を複眼的にとらえること、押しても駄目なら引いてみること、人生に潜む困難に打ち勝つには長期的に腰を据えて取り組むこと、そんな深みのある知恵が含まれている諺のように思えてきた。