雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

ネットにおいて必然的な内ゲバ的議論の増加について


 議論は論理の試行錯誤*1であり、従って問題の分析と解決に役立つと考えられる。ただし、問題の分析と解決に役立つのは、論者がそれを志向しているときに限られているのであって、もし議論の目的が「自身の正義を証明するため」「相手の劣等を示すため」となってしまった場合、その議論はほとんど確実に、双方の徒労感のみをもって終えることになるのだろう。


 議論が論理の試行錯誤である以上、それは論者以外の観客にも、彼らがその議題に興味を持っているならば大いに役立つ可能性がある。何故なら、観客自身が持つ主張の前提や論理展開が、当該議論において展開され、あるいは論破されうるので、論者以外の者もまるで自分が議論しているかのような体験をすることができるからだ。この有用性のために、議論は出来るだけ公開されるべきだと考えられる。ただし、議論終了後の検討に堪えられるように、音声ではなくて文字であることが望ましい。更にこれらのことに加えて、議論への参加および閲覧が簡単なこと、議論を行うための資料検索が容易であること、議論展開に即時性があることなども含めて考えると、インターネット上におけるブログのコメントや掲示板での議論は従来のメディアでは存在し得なかった素晴らしい議論環境を提供しているのだと言える。


 ただし、冒頭に書いたとおり、議論には不毛な展開に終わる可能性が十分にある。そして、ネット上の議論は幸福な議論を生む可能性もあるが、不毛な議論を生み出す可能性も十分にあるのだ。その理由のひとつとして考えられるのは、内ゲバ的議論*2の増加だ。内ゲバとは、wikipediaによると

思想を同一とする運動団体内での意見の対立により、個人対個人や派閥間で行われる内部抗争

とのこと*3。そして私は、ブログのコメントや掲示板上での議論では内ゲバ的展開となる議論の増加は避けられないと考える。その理由を以下で述べてみたい。


 まず、議論が成立するには、論者が議論する気にならなければならない。その「議論する気」が成立する前提とは、「自分の主張を相手に納得してもらいたい」という気持ちがあることと、「この相手なら自分の論理展開についてこれるだろう」と思えるくらいに双方が知識や問題意識を共有していることである。ここで大事なことは、つまり、噛み合う(言いかえれば建設的な)議論を展開し得る論者は、いずれも相手へに対して一定の信頼を置いていることが前提になっていることだ。


 これは具体的に、日常の話で考えれば分かることで、主義も主張も真っ向から対立する人と話すことは非常に少ないだろうし、喧嘩腰でつっかかってくる人と建設的な議論が出来たことなど無いだろう*4。「きっと理解してもらえないであろう相手」にかける時間も熱意も、普通の人は持っていないものだから。一方で問題意識や知識のレベルがあまりにも異なると、論者が先生と生徒の関係になってしまい、(そこで起きる会話は決して無駄な時間にはならないが)実りある議論になるとは言い難い。


 勿論、先に述べたような信頼が前提となっていない場合でも議論はなされる。ただし、それは討論会や国会や法廷(後半2つは場合によるけれども)など、議論を見守る観客に自分の主張を訴えたいという状況に限られるのではないか。そしてこのような場合、議論が建設的かどうかおよび議論が噛み合っているかどうかはどうでも良い問題となっており、従って議論は大抵の場合不毛なものとなるだろう。


 さて、「内ゲバ的展開となる議論の増加」についてであるが、話はほとんどこれまでで終わっている。次の3つを足し合わせると結論となるのだ。

  1. 「噛み合う議論には、論者双方が問題意識と前提意識を共有していることが必要」なので、そもそも盛り上がる議論を行いうる論者は思想的に同一および類似のグループに所属している。
  2. 「ネット議論における参加の容易性」は、時間および文字数の制限が無いというその容易性から、微細なことや関連性の低いことまで展開してしまう可能性を生み出してしまう。あまりにも瑣末なことを議論している姿は、観客からすると「内ゲバ的」に見えてしまうのだ。
  3. 「ネット上の議論」は、論者を増やす一方で観客も増やす(長期的に考えた場合はテレビに負けない観客を獲得できる可能性だってあるだろう)。そして観客からのコメントを確認することが非常に容易である。そこでは、議論の目的が「相手に」分かって欲しいということから、「観客に」自分の意見を主張したいということに変化する契機がいくらでも出てくるだろう。


 かくして、ネット上の議論は盛り上がれば盛り上がるほど、観客にとっては不毛な内ゲバ的議論の様相を呈することになる。(了)



 んー、曖昧なところもあるけれど、一度「内ゲバ」について書きたいと思っていたので載せてしまおう。まあ、観客にとっては不毛な議論ほど面白いのかもしれないけれど、そればかりじゃまっとうな論者は増えてこないと思うわけです。

*1:各論者の持つ前提と推論をぶつけることによって、お互いの前提の無根拠さや非論理的な推論が修正されていく。

*2:より適切な言葉があるかもしれないが、分からなかったので勝手に造ってしまった

*3:とある左翼集団内で糾弾会や内ゲバが発生することはあるのに、左翼信奉者が右翼信奉者を叩くときには演説やビラ攻撃しかしないのは、一見不思議に見えるが、実は合理的な行動なのだろう。ちゃんと分かってくれる奴こそをとことん叩いて、意見が通じない奴らとは会話もしない(排除する)、というこの合理的かつ不毛な態度は、決して左翼集団に限らない。

*4:マニアックな事例で申し訳ないが、将棋の戦法で言うと、振り飛車党と居飛車党が一緒に戦術の研究をしてもあまり盛り上がらないが、居飛穴党が端歩をつくかつかないかでは議論が猛烈に盛り上がったりする。ただし、ここからは完全に蛇足だが、このことは異文化コミュニケーションが成り立つことと必ずしも矛盾しない。理由を単純に言い切ってしまうと、前提となる教養や考え方が異なれば議論に障害をもたらす可能性もあるが、論者がお互いに「相手に分かってもらいたい」と志向する限り、常に議論は実りあるものとなるはずだから。