雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

議論と感情、仕事と家庭

 話をしていると、やたらと自己主張が強い人に時々出会う。自分を分かってもらいたいのか、それとも人の話を聞きたくないのかは知らないが、大体の傾向としては、一方的にしゃべるのが好きで、話の最後は自分が言い切って終わらないと納得せず、そして人の話を聞くのがあまり上手でない。


 こうしたことは、おそらく短期的には良い結果をもたらすことがある。特に仕事の場では、ある程度こういう態度を貫かなければ無能扱いされることもありえるわけで、いわゆるひとつの説得力であり、議論に勝たなければならない場面では、こうした人が望ましいとされるだろう。ところが長期的に見たときに、これが負に働くことがある。何故ならば、議論で相手を打ち負かしたところでその者との信頼関係が築けるわけではないし、仮に感情的なしこりを残してしまうと、「その次」がやってこない事態に陥るからだ。


 ところで、人は二重人格を続けることが出来るだろうか。もちろん個人差はあるだろうが、きっと不向きな人も多いだろう。仕事と生活で、つまりは職場と家庭で、大抵の人は場面によって人格を無意識に使い分けているのだが、一日の大半を占める仕事面の人格は、月日を経ていくうちにその境界を越えて生活面の人格に影響をおよぼしてくると思うのだ。実際、仕事の顔と家庭の顔を分離することは困難で、本人も気付かないうちにそれぞれが融和して、相互に影響し合っていくのだろう。


 そうだとすれば、仕事のために必要な「ビジネス・コミュニケーションスキル」を磨くことで、場合によっては親しい人達との関係に悪影響をもたらす可能性もあるということだ。当たり前のことではあるが、生活や家庭、友人関係というのは、必ずしも損得や必要性で繋がっているわけではなく、良く分からない縁とやらで結びつき、勝敗も優越も無関係にグダグダとしているだけの関係である。思いやりとか、配慮とか、おせっかいとかそっと見守るとか、そうした仕事の場に持ち込むのが不適切な感情によって支えられている関係を、断定的な口調で言い切ったり、独善的な論理を用いて正当性を主張したりしても、上手くいくわけがない。しかし仕事面での人格は、家庭における私の人格を少しずつ犯していく。こうして考えてみると、これは定年退職後の男性が孤立する理由のひとつに当たるのかもしれない。