雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

政治と国民の距離

 最近気になったニュースについて。大阪府で、国旗国歌関係の条例が制定されたそうだ。このことをめぐって様々な立場からの議論があるようだが、そもそも論として、このようなことが議論の焦点になること自体が変ではないかと思う。(まだ最終的な結論は出されていないが)職務命令の妥当性から判断すれば、国旗国歌について敬意を払うべきという理由だけで条例を制定する必要性は乏しいだろう。一方で、国旗国歌そのものに反対する立場から出てくる「戦争を想起させるから良くない」や「政治が教育に介入することを防ぐ」等の主張も筋違いだ。


 確かに日の丸や君が代によって当時の戦争を思い出して嫌な気分になる人もいるかもしれないが、例えば卒業式で君が代を歌うことは決して戦争賛美を目的としてはいないわけで。大体、第二次世界大戦中の国家主義的な日本の問題点は、議論を軽視した精神主義であったり、寛容性に欠けた排外主義であったり、封建主義的な社会システム等であったはずで、それらをこそ戦後日本は乗り越えなければならないと頑張ってきたのではないか。にもかかわらず未だに、政治や国家を前提として悪または暴力と捉えるような主張が公に語られることこそが問題なのだ。「政はお上が行うもの」などという考えを国民が当然視していては、民主主義が機能するはずがない。


 大きくて深い、困難で本質的な問題はあまり語られずに、目先に見える小さな課題ばかりが、不必要なほどに大きく取り上げられてしまう。どんな問題にせよ、重要性と緊急性を取り違えて捉えてはいけない。ただ、これは努力目標を掲げるときに良くいわれる、漠然とした大きすぎる目標ではなくて小さくて具体的な項目を目標に掲げると現実的なターゲットに見えて努力できるから良い、という話と同じなのかもしれない。


 昨今の菅内閣の退陣にかかるドタバタぶりを見ていると、政治が完全に国民から切り離されて、まるでひとつの芝居のように流れていっているように見えるけれども、こうした政治の空白期間は確実に日本社会に負の影響を及ぼしている。おそらく、ほとんど誰もが「こんな政治を望んでいない」と考えているにもかかわらず、そうした思いが形に結びつかない、だから政治への関心はどんどんと失せていくという負の循環。幕末期以降の約150年間、日本は民主主義を定着させるために相当な苦労を積み重ねてきた。何故にここまで、政治と国民の距離が遠いのか、それこそが問題の根本だろう。国民が祖国を愛することは、さほど声高に叫ぶべきこととも思えないが、愛すべき国家をつくる真っ当な努力については、もう少し語られても良い。