雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

社会インフラ

 以下は、リンク元に対しての賛否を書いているものではなく、ただ良い問題提起をされているなと感じたので、自分なりに思ったことをとりとめもなく書いたものです。

 学校も警察も、何もしなかったら不作為・怠慢を責められるので、対処しなければならない立場にある。実際、何か事件がある度に「○○の責任が問われる」という文句がメディアを賑わし、事件を踏まえた今後の対応について提案が出されるわけで。そうしたことを積み重ねた結果、万が一の可能性すら無くても、「可能性がある」と確信している人がいる可能性があるならば組織として対応せざるを得なくなる*1


 完全なセキュリティを求めれば予防に費やすコストは増す。より大きな責任を負わされた組織を運営するコストが増すからだ。そうしたコストは社会が負担しなければならない。こうしたコストを減らそうとするための見せしめとして被告に重い刑罰が課された、という理解は間違っているだろうか。正直なところあの書き込みで懲役1年半(執行猶予3年)にはかなり驚いた。


 安全保障と表現の自由とを比較すれば、前者が勝つのだろう。恐怖を抱く人が他人の自由を許すことなど出来ない。悪戯を許容する社会、または「常識で判断すれば良い」と言える社会は、信頼という社会インフラが支えているからこそ成立する。恐怖を打ち消すほどの信頼とは、なんと有難い財産だろうか。常識、信頼、規範、世間的つながり、日本はそうしたインフラ(ソーシャルキャピタルと言うべきか)を、長い時間をかけて少しずつ破壊してきたのかもしれない。


 センセーショナルな事件の影響は、実際の被害者や遺族にとどまらず、(恐怖感を与えるという点、またソーシャルキャピタルを減退させて社会的コストを上げるという点で)社会全般に及ぶ。具体的には治安、つまり警察の業務に帰結していく。警察の責任が増えるのであれば、その権限も今後強化されていくのだろう。それは必ずしも犯罪の防止にはつながらないのではないか、とは思うのだけれど。セキュリティを求める結果、暮らしにくい社会になってしまうのは仕方ないことなのだろうか。何事にも優先順位を、という論理は「万が一」の論理に勝てないのか。

*1:もちろん、現場では「本当に大切なことは何か」「建前の論理で仕事を増やすべきではない」と考えている担当官はいくらでもいるだろうが、しかし組織における自己防衛の論理とはやはりそういうものなのだろう。そして、そういう様に萎縮および防衛に向かわせる風潮(感情的に「叩く」&反論を許さない)が、確かにある。