例えば、ある卑屈な人がいるとしよう。その卑屈な人は、自らの卑屈さを嫌悪し、また他者からもその卑屈さを批判されている。そこで、その卑屈な人は自らの卑屈な態度を改めようと考える。これからは、自己を貶めたり辱めたりしないし、みっともない自分を隠したりしないんだ。何事にも自信を持って挑戦し、自身の欠点を堂々と公開するんだ。
けれど、彼はおそらく「失敗」するだろう。卑屈な態度という表面的なものの背景にあるものを忘れているから。確かに、卑屈さは決していいものじゃないかもしれないが、それは必要があって身につけたもののはず。何の必要があって?それは、彼の持つ「弱さ」。自身と向き合うことも出来ず、限界を知ろうと挑戦することも出来ず、他者の蔑みの視点に耐えることも出来ない、そういった弱さがあるからこそ、彼は卑屈さを身につけて自己を守ろうとしていたんだ。自身の弱さを放置したまま防護壁を切り崩しても、彼が自らの弱さを克服しようとしていないならば、何にもならない。彼が直すべき点は、卑屈さなどではなく、その自らの弱さであったはずだ。
自分を守ること。己を知ること。自らの弱さを知ること。弱さを自覚して生きること。強くなりたいと願うこと。きっと、これらは全部同じ意味。淡々とした日常生活の中では、次第に自分の弱さを忘れてしまうけれど、あるとき不意にその弱さに直面することがある。一方で、自身の弱さを忘れて、何を勘違いしたのかやたらと強気になって自らの防御壁を壊してしまうことがある。「超人」気取りの凡人は、たとえそのときは高揚感に浸っていても、後に待っているのは後悔だけであろう。社会的立場とか、理屈や自分の作り上げたルールとか、他者の噂や評判とか、いろんなもので私は簡単に自らの弱さを忘れてしまう。なぜ目をつぶって全力疾走してしまうのだろうか。