雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

幻想に囚われて(1)

何となく賭博について考えてみる。
パチンコ、競馬、丁半、等々・・・


その時、私の頭に浮かんだのは、『真面目』な人だ。
「いえ、私はそういう賭け事の類は一切致しませんので」
なんて台詞がとても似合ってしまう人。


どうも博打は印象が悪いようだ。
私は生まれたときからそう教えられてきた気がする。
博打なんてドツボにはまって不幸になるだけ、地道に真面目に努力しなさい、と。



博打とは何か、ギャンブルとは何か。
あまり厳密な定義は必要としないので、
「能力以外の何物かによって勝敗が左右される遊び」
とでもしておこうか。


では、「地道に真面目に働く」とは、如何なる意味なのだろうか?
現在日本において最も一般的な労働形態は、おそらく賃金労働であろう。
そして賃金労働者にとって、働くことの最も根本的な意味は、上司の命令に
従うことである。さらに単純化すれば、最高責任者(経営者、社長、代表、
総理大臣、首長、等々)の命に従うことが、賃金をもらって働くということだ。


(仕事には、お客様のために・社会のために・この仕事が好きだから働く、
などといった面も勿論ある。そういった視点が無くてはプロとして問題であるし、
何の意義付けもせぬまま命令に従い続けることは難しい。しかし、長期的に、
また全体的に考えた場合、賃金労働の根本的意味はやはり上記のものだろう)


ここで大胆に捨象して、賃金労働者が所属する会社が株式会社であるとしよう。
真面目な賃金労働者は最高責任者(取締役社長)の命に従うが、その最高
責任者は誰の命に従うのか。法律論から言えば勿論(そしておそらくは実態
から言っても)株主である。


その株主は何をしているのか。
資金を会社に投資して株券を得て、その価値が上がるのを期待するのだ。




・・・え?
それって博打じゃん。
予想をして、金突っ込んで、勝てば倍付け、負ければすってんてん。




日本では、未だに株を博打とみなし、良からぬ印象を持っている人が
多いと思う。もっとも、株式投資をする人と、競艇場の客とのイメージは
違うのだろうけれど。とかく博打は叩かれる。


それでは、「真面目な労働者」はなぜ叩かれないのだろうか?
株というギャンブルで遊ぶ人達を儲けさせるために地道にコツコツ。
なんだそりゃ。どこが偉くて尊いの?
資産が無いからギャンブルできないだけなんじゃないの?




更に話を展開させるが、そもそも人が生きるにあたって、
博打と無縁な人生が送れるとでも思っているのだろうか?
いや、違う。むしろ人生は常に博打だ。
そしてこのことは皆、今までの人生で何度も実感したきたはずだ。



「地道に働き、コツコツ貯金して、一軒家を建てて幸せになろう」



1980年代において、土地を買い、一軒家を建てることが
その後の幸せにつながったかい?
第二次世界大戦終了前の日本において、コツコツ貯金をすることは
その後の幸せにつながったのか?
1990年以前において、超安定一流企業である銀行に就職することは
本当に堅実な選択だったのだろうか?


皆、こうであればいいな、きっとこうなるだろうな、という予想を立てて、
決断して何かを投資するが、最終的な結果は自らの努力だけでは
得られない。場合によっては、努力なしに良き結果が得られることも
あるではないか。



1:博打は決して悪ではなく、そして善でも無く、単に生き物の宿命である。
2:「地道な人生」とやらに、過剰な期待をしてはならない。それは幻想である。


上記二点を真摯に受け止め、よく理解した上で、それでも自らの希望を実現
するために出来るだけのことをする。それはつまり、自らの力で出来ることが
如何に狭い範囲のことであるかを認識して、それでいて虚無に陥らず、
なすべきことをなし、いかなる結果も受け入れる、ということだ。




私には、こんな困難なことは実現出来そうに無いのだが。



嗚呼、ホント人生ってめんどくせーな。