- 作者: マックスヴェーバー,大塚久雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1989/01/17
- メディア: 文庫
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学生時代から、是非この本だけは読まなくては、と思っていた本のひとつ(何故私は学生のときに読まなかったのだろう)。読書後、これは確かに「読まなくてはならない」本であるな、と確信した。なぜなら、近代西洋を理解するためのキーワードである「プロテスタンティズム」と、近代世界全体を理解するためのキーワードである「資本主義」について学べる教科書であるのだから。
中世末期における西欧宗教改革が一般信者の生活に与えた影響は何か。それは、救いの予定説による不安およびその不安を払拭するための心構えと新たな生活様式、つまりは禁欲であった。貴族的生活を、投機を、利子を、贅沢を、余暇を、無駄な時間を嫌い、そして「仕事」に打ち込むのだ。その宗教的態度と生活が「意図せず、結果的に」近代資本主義を強力に推し進め、しかしいつしか資本主義システムは全てを飲み込み、個々人の宗教倫理や仕事の意味を奪ってしまった。
このように書くと、世界史的な悲劇を眺めているような気分になるが、問題は今現在の私もこの巨大システムの中にいて、そこから外には一歩も出られないということだ。そしてだからこそ、この本は現在においても読む価値があるのだろう。
私は、キリスト教的な神を信じていない。だから予定説自体には、全く恐怖を抱かない。しかし、そこから生まれた禁欲という発想には大いに共感できた。なぜ人々は働くのか―それは、自分が救済を約束された人間であるという確証を得るためだ、とある。なるほど、そうなのか、仕事(=天職)は人生の一部であり、小銭を得るための臨時的な手段ではないのだ。仕事にはそれ自身に意味が内在するのであり、仕事をして得た対価で何を買うか/行うかはあくまで副次的な問題に過ぎないのだ。
昔から、「働かざるもの食うべからず」という標語があまり好きではなかった。この言葉には、それ自体に正当性があるかのように用いられており、根拠を問うことすらも許されないイメージがあったから。しかし、当書を読んでこのことばが聖パウロのものだと知り、この言葉の背後にキリスト教的な思想があるということで少し納得出来た。「働くということは、神の意思に従うということである。そしてあなたは生きる(=食べる)限り神の意思に従わなえればならないのです」という宗教的発想に基づくものならば、その理屈を受け入れることができる。更に話がずれるが、禁酒法についても前は「こんな法を作るなんてアメリカ人は極端だなあ」くらいにしか思っていなかったが、プロテスタンティズムの発想を基盤に考えることではじめてその意義が理解できた。
現代において、働くということにこれほど積極的な意義付けをすることが出来るだろうか。当時の人々は誇りと喜びとを感じながら働いていたのだろう。信じるものはいつでも強い。そんなことを羨んでしまうのだが、神も予定説も信じることのできない私には、例え上記でいう「仕事(=天職)」の持つ意味に共感することが出来たとしても、それだけで人生を方向付けることはできないのだ。
それでは改めて自分に問う。なぜ、仕事をするのか。きっと多くの人は、「生活するため」と答えるだろうが、もしそうであれば、宝くじで3億円を手に入れたら、もしくは60歳で定年を迎えたら皆仕事をしなくなるのだろうか。仕事は苦役でしかないのだろうか。誰のことばか忘れてしまったが、「仕事の意味とは、道に穴があるのを見つけて、それを埋めることにつきる」のではないだろうか。賃金を得る、ということは、仕事を定義づけるために必須のことでありながら、しかし仕事の持つ多様な側面の一部に過ぎない。
私には、生まれつきひとつの責務がある。それは、私自身を幸福にしなければならないということだ。ここでいう「幸福」と「欲望を満たすこと」の関係が同一のものなのか、それとも全く異なるものなのかは、正直私には分からない。ただ、私は私を幸福にしなければならないと思うし、そうすることによって友人や家族と言った私の周囲の大切な人の幸福に貢献できると思うし、それが社会に役にたつための基礎になるものだと思う。もちろん、周囲の人達の幸福や社会福祉の向上は私の幸福自身に寄与するものであり、そこには相互作用が働いている。
私には上に述べたような意味の責務がある。だから、神の意思に沿うために仕事をするのではなく、私自身のために仕事をする。