雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

働き方改革はどこへ向かうのだろう。

安倍内閣が掲げた「働き方改革」は、中身がよく分からないままに言葉だけが独り歩きしているように思われる。結局のところ、一体なんだったのだろう。

 

年次有給休暇の取得が義務化され、残業時間の上限規制が設定された。そして今、男性の育児参加を進めるために、育児休業の取得義務化や男性の産後休暇制度の新設が検討されている。その一方で、女性の社会参加を進めるため、女性の就業率を高めると共に管理職に占める女性割合の向上が求められている。そして経済活性化(と年金財源の延命)を図るために、更なる定年延長が実現に向かっている。最近では、コロナ禍対策として時差出勤や在宅勤務の徹底が半ば強制された。もし東京五輪が今年開催されていたら、期間中は交通渋滞解消のため時差出勤やテレワークが強く推奨されていたことだろう。そういえば、プレミアムフライデーなんてものもあったかな。

 

どれもこれも、手法として否定すべきものではない(肯定的に捉えられる側面がある)、とは思う。ただ、こうした手法の目的は「目の前の社会問題を解決する」ことばかりで、根本的な労働問題の解決につながっているのか、という疑問が拭えない。根本的な問題とはなにか。それは、労働者が、自分の生活を自らの判断に基づきコントロールできていないことだ。仕事を完全に自分の思い通りにすることは難しいだろうが、自分の生活を優先して仕事をそれに従わせることができれば、もっと皆の幸福度が高まるだろう。

 

 

しかしながら、「自分のために休暇等の制度を活用することの重要性」を声高に主張する人はあまり見かけない。「勤務時間が終わったら帰宅するのは当たり前」、「自分または家族の生活が優先されるのは当然」、「休暇の権利を行使するのは当たり前」と皆が心から思って、公言できる職場などどれだけあるのか。「仕事優先は仕方のないこと」と信じている人が大半の状況下で、どれだけ「働き方改革」の旗を振り続けたところで我々の生活は豊かにはならないだろう。むしろ、「残業代が減って生活が苦しくなった」「早く帰っても家に居場所がない」などと嘆く声が出てくるだけだ*1

 

仕事は尊い。私も時々そう思う。しかし、絶対視(神聖化)してはいけない。人生の側面は多種多様だ。皆が仕事に人生を捧げる必要はない(自らの決断によりその道を選ぶ人のことは否定しないけれども)。仕事とは、生活の糧を得るために、報酬を支払ってくれる人と結んだ契約内容を執行することに過ぎない。契約を守るため、その限りにおいて働くだけだ。そう考えると、生活の方が優位にくるのは当たり前のこと、のはずなのだが、もし皆がそう考えていたら、今日の日本的労働問題は生じていないだろう。

 

「お先に失礼します」「すみませんが明日、有休をいただきたいのですが・・・」という言いまわしが定着している風土はどうすれば変わるのだろう。多くの人が「プライベートを優先して社に迷惑をかけるのは良くないことだ」と考えてしまう文化を変えない限り、新たな休暇制度を設けても効果は出ないと思われる。「皆も俺も我慢しているからお前も我慢しろ」が日本的精神なのか?「俺もワガママしたいから、お前のワガママを認める」という方向に変わることはできないのだろうか。(契約で認められた範囲なら)ワガママで良いじゃないか、自分の生活の質を上げたいという考えの何が問題なんだ?という意見が多数派になること、それが本国で目指すべき「働き方改革」だと思うのだが・・・。「会社(社会)のための働き方改革」を押し進めるなんてのは、悪い冗談だよ。

 

ところで、労働者の権利行使を主張すると、「そういうお前は給料分働いているのか」「ろくに働いていないやつに限って自分の権利を主張する」「契約上の義務を果たさない社員のクビを切れない会社こそ被害者だ」等の意見が出てくる。解雇規制が厳しい日本においては、そうした雇用側の主張にも根拠、というか困っている実例があるのだろう。そこは否定しない。ただ、「労働者が周囲への配慮から休みをとれないこと」も「役割を果たさない社員を解雇できないこと」も、雇用関係が固定的であることに起因するという点で共通している。もっと雇用が流動化して、労働者と会社がドライな関係にれば良いのに、と個人的には思う(が、当然そこには色々なリスクもあるのでなかなか難しいところ)。

*1:ところで、こうしたタイトルで記事を作る報道機関は、一体どういう意図で記事を書いているのだろうか・・・。