私は人生の目標を持っていない。
小さなころから、将来の夢というものがよくわからなかった。
のんべんだらりと、流されるがごとく人生を送ってきた。
人生に目標を設定して、その実現に向けて努力をする。
この一見美しく見える態度には、実は致命的な欠陥がある。
それは、目標を達成した後も、人生は続くということだ。
人生は、夢が叶おうが敗れようが無関係に続く。
つまり、生きるということは、目標や夢なんてもので限定されはしない。
自己の役割を固定化してしまうものは、人生にとって有害である。
「私が生きている」ことに比べたら、「どう生きるか」なんてことは、
全くもってどうでもいいことなのだ。
・・・と、ここで思考停止してしまった私は愚かであった。
実のところ、生きると言うことは、その都度の役割を背負って演じる
ということでしかありえないのだ。無限定な私などというものは、
この世界に存在しない。目標や夢を無価値なものとして否定していた
私が今、組織に所属して、その命を受けて働いて賃金を得ている。
この状態を「役割」以外の言葉で表せられるだろうか?
偉大なる生命が、決して「役割」によって矮小化されてはならないことを
前提としつつも、それでも私は私の役割を演じて生きていく。
仮の姿である「役割」をこそ、真剣に生きなければならないのだ。
一つ幸運なことは、私には選択肢があるということ。
私の愚かさゆえにその選択権はかなり限定されてしまったが、
まだいくらか残されているようだ。
「今の職は、いつか必ず辞めなければならない」
それは数年後かもしれないし、もしかしたら、ずっとこの職にしがみつく
のかもしれない。しかし、いつか辞めなければならない、という
根拠の無い強迫観念の中で生きていきたい。そうすることによって初めて、
私の生命はその全体性を保ち、かつ私は私の役割を真剣に演じられるように
なると思うのだ。