雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

やさしさなんてもとめないで

先日、とある試験に合格した。
金と時間と労力をかけていただけに、とても嬉しい。


その試験は私の周囲の人間は誰でも通っており、その意味で私は
少数派、というより異端者だった。ほど良いぬるま湯人生のレール上を
走ってきた私にとって、明確なマイノリティーに属することは珍しく、
少し思うところがあったので記しておきたい。



自明のようでいて、しかしそのはっきりとした認識は異端者にしか
出来ないこと、それは「私は他者とは異なる」ということだ。単純な
例で話すならば、私が「痛い」と叫ぶとき、その正確な感覚は、その
時の私にしか分からない、ということ。言語学を出すまでも無く、
そんなことくらいなら誰でも分かる。しかし、他者理解や認識における
この絶対的な不可能性とでもいうものの寂しさを実際に体験する機会は
なかなか無い。



皆それぞれの人生に忙しいから、他者に対して気を使う余裕は無い。
こうして、他者理解の出来ない人間が、無配慮に他者に接するとき、
どんなに相手が傷つくことになるのかなんて分からないのだろう。そして
このとき、相手が自分に親しければそうであるほど、自分の孤独感は増す。




結局、私の置かれていた状況、気持ちなど、全く理解されていなかったのだ。
私がひとり絶望して相手に伝える努力を放棄したのもその一因ではある。
しかし、そもそも他者のことなんて理解しようと努めることすらしないのが、
人間の常なのだ、と私は思い知らされてしまったのだ。無遠慮なプレッシャーを
かける人、自業自得と突き放す人、分かったそぶりをしているだけなのが明白な
人、等々。そうした態度の人々と接して、どれだけ私が孤独を感じてきたことか。



関係の疎なる人達は、「まあ、がんばれや」と言うだけだったり、笑っておしまい
だったりして、これは一見冷たい態度のように見えるが、実際にはこの方が
気が楽だった。なぜなら、「どうせ私のことは貴方にはわからないのだから、
放っておいてくれ、関わろうとしないでくれ」と思っていたからだ。
無理解で無遠慮なのが他者の本質ならば、そのままでいてほしいのだ。
下手に近づいて私を傷つけるくらいなら、ずっと遠くにいて欲しいのだ。
私は自らが傷つくのを恐れている臆病者にすぎないし、その態度は生産的でも
未来的でもないかもしれない。しかし、たっぷり傷ついて、孤独感に包まれ、
他者と関わりたくなくなっている今の状況を一体どうしろというのだ。





私のことは私にしか分からないし、
貴方のことは貴方にしか分からない。
だから、business以外では関わらないようにしましょうよ。





最後に、一言。


これまで他者に対し、無理解で無遠慮だったくせに優しげな素振りを
見せ続けた、最も悪い人間こそが私であることを告白します。
これからは、なるべくひっそりと生きようと思いますので、
どうかお許しください。