雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

自殺問題について

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私もあなたも、毎年自殺者が3万人を超えている社会に生きているのだ。ひどい現実だと思う。


 ただ、この自殺対策基本法っていう発想はあまり筋が良くないような。一度でも真剣に自殺を考えた人なら誰しもが「法で自殺は減らない」と思うのではないか。法制定を求める人の気持ちは分かる。それはきっと遺族の悲痛な気持ちや、人間としての良心の現れなのだとは思う。しかし、だ。

事業主にも雇用者の心の健康を保つ措置を講じるよう求める。

それは現在すでにあるルールを守っていない企業に問題があると考えるべきだと思うし、

さらに「政府は必要な法律上、財政上の措置を取らなければならない」とし、基本的な施策として(1)自殺防止の調査研究、情報収集(2)自殺の恐れがある人が受けやすい医療体制の整備(3)自殺の危険性が高い人の早期発見と発生回避(4)自殺未遂者と、自殺(未遂を含む)者の親族に対するケア(5)自殺防止に向けた活動をしている民間団体の支援−−などを挙げている。

(1)(4)はともかく、(2)については政策としてカウンセラーを増やせば良いことだし、(3)は無茶言うなだし、(5)のような民間団体が一体何をしてくれるのかさっぱり読めない。結局、屋上屋を重ねるだけで、立派な法律だけ作ってゴール、という雰囲気になるのではないかと不安なのだ。


 大切なのは、現在行っている政策をより良くしていくことなのではないのか。過労死を防ぐための政策(労働者保護)を見直し、国全体の景気を良くすることこそが個人の命を救うという信念を持って経済政策に取り組むことが現代資本主義における政府の役割なのではないか。(国が金持ちになったからといって国民個人が幸せになるとは限らないという批判は今回は筋違いであろう。経済成長が国民に不幸をもたらすと断言される人なら仕方ないけれども。こんな新法の成立に時間と労力をかかえるよりも、雇用の確保に取り組み、賃金の増加を担保し、消費を刺激して景気を活気づけ、様々なビジネスチャンスを保障して経済成長の達成を図ることのほうが余程自殺問題の改善に役立つと思う)


 長々と書いてしまったが、まあ正直なところをいうと、自殺という「私」の問題に国が出てくるな、という実に感情的なところが出発点にあるのだが。「私の死は誰にも止められない。止められるのは、生きてみようと思う自分だけだ。」この信念からくる怒りとでも言うべきか。自殺者の数からして、政府として何かしなくてはならない、という意見が出てくるのは理解できるのだが、どうしても感情的に反発してしまうのだ。


 生きていこう、という方向に影響を与えるのは、私の周りの大切な人から得る愛情や、偉大な哲学や音楽、旅先で出会った素晴らしい風景、そして自分自身への希望が持てること(自信や夢)など、極めて個人的なものだろう。そうした個人的なつながりから力を得て、生きていこう/もう少し生きてみようと自ら決断できないのならば、あとは周りがどうやっても死は免れ得ない。人は簡単に死ねる。だからこそ生きていることはすごいことなわけで。


 私が誰かに愛情と信頼を注ぐこと、相手の幸福を願い協力すること、そして私自信が幸せに生きること。私とあなたの生命を守ることに関しては、システムが貢献できる割合など微々たるものだと思うのだ。