雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

制服と多様性、校則のあり方について

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この記事にあるブコメ「そもそも記号化の極であるピクトグラムに多様性を強制する姿勢自体に俺は批判的なんだが」を見て、次の記事を思い出した。

 

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性的少数者への配慮という観点から、学校制服の選択肢を増やしたという記事だ。私はこの記事を見たとき「そもそも自由を制約する制服に多様性を求める」ことに違和感を抱き、なぜ制服を廃止する方向にならなかったのだろうと疑問だった。

 

制服(標準服)のメリットとデメリットについては、個人的経験を背景として多様な意見があるので、議論をしても結論を出すのは難しいだろう。制服の方が経済的(他の服を購入しなくて良い)と考える人もいれば、私服の方が経済的(制服自体が高価である)と考える人もいるし、また、制服だといつも同じで毎日悩まなくてよいと考える人もいれば、毎日同じ制服を着るのは不衛生と考える人もいるし、さらに、風紀の乱れの防止効果に注目する人もいれば、制服を着ているが故の犯罪被害を心配する人もいる。

 

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問題は制服の良し悪しを決めることではなく、制服をアルマーニユニクロから選ぶことでもなく、制服(標準服)自体を広く校則と捉えて、そもそも校則のあり方について議論されることが必要なのだろう。

 

私自身は、ルールというものは必要最低限であるべきと考える*1が、それは単なるひとつの価値観に過ぎないし、ルールは所与のものであってそれを守ること自体に意味がある、と考える人や、問題が起きないようにルールは広範にあった方が良いと考える人もいるのだろう。しかし、学校は社会そのものではなく、学校のルール(校則)は社会全体のルールとは同一に語れない。少なくとも、校則は所与のものではないし、「あって当然」と考える根拠はない。

 

先日、「下着は白」などの校則が「ブラック校則」として話題になり、一部見直しがされたようだが、令和の時代にまだこんな校則が存在することに驚いた。

 

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これがかなり特殊な例だとしても(そうであってほしい)、やはり思ってしまうのは「おかしな校則は改めるべきだ」ではなく、「そもそも必要性が明確でない校則は存在すべきではない」ということ。社会的問題となったから見直そう、ではなくて、どうしてこれまでこんな校則の見直しが議論されなかったのか、その構造的問題が問われるべきだ。

 

保守主義の観点からは、「既存のルールには理由があるはずであり、その意味を問うことよりも、それを守ることが学校秩序を保ち、結果的に生徒のためになる」という説明も可能だろうが、それではルールが所与のもの(変更不可のもの、絶対のもの)となってしまう。どんなルールにだって理由や良い効果は見つけられるので(人は見たいものを見るし、聞きたい意見を聞く)、結果的に見直される動機が起こらない。

 

世の中全てをゼロベースで見直すのは非効率だし、革新主義(進歩主義)の発想が必ずしも良い結果だけをもたらすわけではない。そうは思うけれども、反抗期まっさかりの学生が保守主義一色に染まるとは考えにくい。ルールは、守らせる側の執行力だけでなく、守る側の理解があって初めて成立する。やはり説明できないルールは、その存在意義が問われるべきだろう。ルールに従うことの社会的意義を教えることと、ルールそのものを問い直す重要性を学ぶことは、矛盾しないと考える。

 

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*1:ついでに、制服(標準服)は不要だと考える。