雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

無責任な人の言動のもたらすもの

 何かに対して責任のある立場の人は、その責任の範囲を認識し、引き換えに与えられた権利を行使して、任務*1を達成すべきであり、仮にそれが為しえない事態になればその地位を追われる。当たり前の話だけれど。大抵は責任と同時に給料ももらっているわけだし。


 気になるのは、無責任な立場の人だ。何かをなすべき責務を負っているわけでもなく、結果がどうなっても責めを引き受ける必要も無いから守るべきものもない。しかし、誰にでも「発言」という武器を行使する権利はあるので、自分の意思に従って自由にモノが言える。そして、マスメディアやネットのおかげで発言を行うことはより容易に、より影響力を持つようになり、更には金まで稼げるようになった。


 そうであれば、誰が好んで責任を取ろうとするのだろうか。私は、建設的かつ本質的な批判によって責任者にその責務を全うさせる仕組み自体を批判するつもりはない。ただ、無責任な発言が高じて単なるレッテル貼りや「叩き」になって、責任を追う側の組織防衛の姿勢を強化することになり、社会の溝を深くするだけの結果しか生まないという事態を考えれば、何故無責任な人の発言を咎める声がこれほど少ないのだろうか、と不思議に思うだけだ。


 批評家やコメンテーターに求められる責任は、本当はある。ただ、適当な思いつきを言い放すだけの人が、あまりにも多い。その人の意見がどれだけ面白いものであったとしても、「ためにする批判」レベルに終わるのであれば何の意味も無い。無責任な発言は非現実的な見解も許されるが、それは「ためにする批判」につながってしまうのだろう。


 そんなことを、メディアは何故あれほど対立の図式を煽るのだろう、と不思議に思いながらぼんやりと考えていた。対立構造は、分かり易く、面白い。しかし、それは結果に責任を取らない立場にいることで陥ってしまう罠なのだ。社会は、ひとつの複雑な構造体である。本来、敵と味方とを完全に分けることなど出来はしない。「敵」なる存在は、発生したときはぼんやりした形であったのに、自然にその輪郭が明確に彩られるようになり、それに従って対立も先鋭していく。恐怖や怒り、あらゆる不幸な過去は敵の存在を現実以上に巨大化してしまう。衝突と協調と融合は、長期的に見る限り「同時に」起きているのだけれど、そのことに気付くのは不可能なほどに難しいことだ。

*1:それが日常(継続)的なものなのか、それともひとつの大きな目標達成にかかるものなのかは問わない。