雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

日常から切り離された視点からの疑問

 昨日や明日など、現在からの時間的距離が短い時のことを考える場合は、現在と比較する方法で考える。しかし、遠い過去や遠い未来のことを考える場合は、ゼロベースで考えてしまうことがほとんどだ。まるで、それらの時間が現在と繋がっていないものであるかのように。


 人間は惰性で動くものだし、どれだけ辛い環境でも慣れてしまうものだ。近い将来は現在と密接しており、基本的にはあまり変わらない日々を送り続けることだろう。日常はどこまでも続くし、私たちはそこでゆったりと流されていく。永遠の昨日。そのことの良し悪しはだれにも分からないし、それが人間の性質である以上、大切なのは善悪の価値判断をつけることではなく、事実を認識して受け入れることであり、「ではどうすべきか」と考えることだろう。


 一方、遠い将来の私が過去を振り返るとき、つまり「遠い過去である今日の私の昨日や明日」を客観的に分析するときは、当然の如くゼロベースで考えてしまう。「何故あんなことをしたんだ」とか「こうすべきだったのに」とか「もっとこれくらい出来ただろうに」とか。勝手なものだ。日常から切り離された冷静な思考は、今の私に情状酌量を与えてはくれないようだ。


 大切なことは、「ではどうすべきか」と考えることである。私は私の日常に慣れ親しんでおり、そこに根本的な疑問を抱くことは難しいだろう。しかし、日常を飛び越えた未来からの視点は、それが冷徹で客観的なものである以上、必ず根本的な問題点を私に投げかける。最も極端な例を挙げると、死は私の全てを冷静に見つめ、根本的な疑問を提示する。死は、いつか確実に訪れる、遠い(多分)未来の私である。私は死を抱え、従って日常を破壊せざるを得なくなる。時が経過する以上、日常と非日常は、私の中に混在する必要があるのだ。