小学校の運動会を見に行く。毎日見ていると気が付きにくいが、子どもの成長は早いものだ、と思い知らされてハッとする。
入門山頭火
町田康著。山頭火の入門書のようなタイトルだが、山頭火の俳句自体はそれほど多く登場しない。むしろ、ひとつの俳句ができるまでにどれだけの過程があったのかを山頭火と共に旅をしながら読み解いていく。
しかし本書の著者は町田康。解説しているようで、いつの間にか文章の主語が町田康になっている。山頭火と一体化した町田康が山頭火を語りながら自分を語る。それでいいし、そこにこそ本書を読む価値がある(本書をタイトルだけで手に取った人は読みながら疑問を感じるかもしれないが)。「どうしようもないわたしが歩いている」という歌を「へらへらぼっちゃん」を書いた町田康が語るのだ。
ダメな人間は、ダメな自分でありたいと願っているわけではない。ダメな自分を自覚して、どうにか脱しようともがいても、それでもダメな自分にしか還れない。自分を受け入れつつ、それでもなんとかしたいとあがく、時にはすべてを投げ出してみる。そういう人間がいることは、結局のところ、一言でいえば救いである(頭木弘樹氏の「絶望名言」を思い出しながら)。「私もこれで良いのだ」と安心するという意味ではなく、同志がいることに救いを感じるという意味で。自らを受容する道は、果てしなく険しい。
分け入っても分け入っても青い山
夏祭り
今年は町内会の役員に当たっており、想像以上に時間を取られて大変だ。特に先日実施した夏祭りは、4カ月ほどかけて企画検討を進め、直前の1カ月間は準備に忙殺されていた。ほぼ同時期に仕事も山場を迎えてしまい、子どもも野球の大会で遠征がある等、諸事が重なってしまったのはつらかった(とはいえ人生とはそういうものであって、「あれが終わったらこれをしよう」とはならず、誰もが皆なんとかしてやりくりしているのだろう)。企画を考える、調べる、問題点をつぶす、準備作業をする、人に頼む、業者に発注する、自分でも動く、質問に答える、皆に連絡すると、あまりにもやることが多すぎて、途中からうんざりしてしまったこともあった。
実際に祭本番を迎えてみると、天気(雷雨)に翻弄されて思うようにいかなかったり、準備不足が響いたり、もっとこうしたらよかったのに、と後になっていろいろと反省点が出てくる。すぐに面倒がったり、綿密な準備をしないのは私の悪い癖で、もっと皆に協力してもらえるようにできればよかったな、とは思う。ただ、もっと全力で取り組めば・・・と考える一方で、「あれ以上にやれただろうか?」とも思う。「実際に起きた出来事が自分になしえたこと」なのだ。ありのままに受け入れるしかない。まあ、誰も怪我せず、クレームも今のところ出ておらず、皆楽しそうに嬉しそうに参加していたようなので、それなりに良かったと評価して良いのかもしれない。欠点のない完璧な状態を理想としたところで誰も幸せにならないので、反省点は次の人に生かしてもらおう。協力いただいた皆に感謝。今はただ、相当長い間続いたプレッシャーから解放されて、後片付けをしながら余韻にひたっている。つかれた~。
やってみなければ分からないことはあるし、どうせやるなら頑張った方が楽しめる。とはいえ、生きているとあれやこれやと忙しくて、時間は有限だ。人生、なかなか思うようにはいかない。