雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

銚子川

三重県紀北町の銚子川に出かける。毎年恒例の行事のようになってきた。今年も大変楽しく、全力で遊べたのはよかった。昨年の反省を活かして、春雨スープとお湯を持って行ったのは正解。それでも身体は冷えるのだけれども。携帯サウナが欲しいくらいだ。

 

紀北や尾鷲は全国有数の雨が多い地域だが、川遊びは晴れて暑い日でないと楽しめないので、毎日天気予報を確認して、行く日は直前に決定する。そうすると宿泊予約ができず、結果的に日帰りの旅となってしまう。運転手としては日帰りは疲れるので避けたいが仕方ないところ。

 

今日は到着が遅くなり、川遊びの後でお風呂に入っていたら、昼食時間がなくなってしまった。時間配分は来年度の課題だ。なお、紀勢自動車道の紀北パーキングエリアで食べたソフトクリームは絶品だった。

 

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銚子川

 

 

梅雨明け、プール

長い梅雨も終わりのようで、大変に暑い。コロナの感染者数も落ち着いており、子どもと市民プールに行く。小学校では昨年に引き続きプールの授業がないこともあってか、近所の子どもが大勢来ていた。屋外プールの水が冷たく感じなくなったということは、それだけ暑くなったということで、いつの間にか夏が来ていたのだな。

 

代替肉

代替肉と大げさに言わずとも、日本人の場合は豆腐などの大豆料理を日常的に食べているので、肉の代わりのタンパク源を心配することもないのだが、代替肉とはどんなものか試してみた。

 

 

まずはモスバーガーのソイパティ。食べてみたところ、いつものモスバーガーとの違いが全く分からなかった。「これはこれで美味しいかな」くらいのレベルを想像していたのに、においも味も食感も一緒で驚いた。企業努力の賜物。

 

次はコオロギクッキー。これも、見た目も味も普通のクッキーで、言われなければ分からないレベル。美味しい。

 

一方で、豆乳は牛乳の代わりにはならないことをあわせて考えると、味が濃い食品の方がやりやすいのだとは思う。

相対化、分断、議論

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mazmot.hatenablog.com

 

 

「盗人にも三分の理」という諺がある。コトバンクによると、その意味は「盗人にも、盗みをするにはそれ相応の理由がある。非難すべき行為におよぶ者にも言い分はある。また、どんなことにも理屈をつけようと思えばつけられること。」とある。

 

この世のあらゆる物事は多面的に評価され得るものであり、盗人にでさえ三分の理があるのだから、結論を先に決めてしまってからそれを補強する事実を見出すのは容易いことだ。したがって、ナチスに限らないが、「〇〇は良いこともした」という主張を展開すること自体は可能だろう。

 

しかし、その主張は単に「言いたいことを言っただけ」のものであり、聞く人からすると「で、何が言いたいの?」という疑問が浮かぶ。素直に〇〇を肯定したいのか、それとも別の何かを擁護したいのか、一般に善とされているものを相対的に貶めたいのか、実はよく分からない。だから、その主張の背景(ねらい)を類推し、レッテルを貼られることになる。

 

一昔前の、常識とか教養とか、何かしらの共通認識が強固な時代においては、あらゆるものを問い直そうとする相対主義に一定の意味があったのかもしれない*1。しかし、今は分断の時代である。何かを肯定すれば「お前はそっち側につくんだな」と言われ、何かを批判すれば、やはり「お前はそっち側につくんだな」と言われる。敵と味方に分かれて、SNSを用いて高い壁をつくり、攻撃と防御を永遠に行い続ける、陰謀論が幅を利かす現代において、「〇〇は良いこともした」という主張をするのは覚悟が求められる(はずだ)。

 

あえて極論を展開して分断を深めるのは、ある意味で「効率的」なのだろう。注目を浴びやすいし、一定の賛同者が得られるだろうし(盗人にも三分の理なので)、仮に正論を返されたところでまともにやりあわずに揚げ足をとったり、「論破」したことにして単独勝利宣言をしてしまえば自分達の輪の中では認められる。議論を通じて「正しさ」に近づくことが目的なのではなく、言い切ることで相手をやり込め、自分をアピールすることが目的ならば、極論(と嘲笑的態度)はなかなか効率的だ。

 

議論というものが、勝ち負けの見世物ではなく、あちらこちらをいったりきたりしながら、むしろそれを行う中で自分の意見が形作られていくような、そんなものであってほしいと考えるのは、残念ながら時代錯誤も甚だしいのかもしれない。

*1:が、全てを徹底的に相対化することで新たな世界が現れるという希望は、幻想だろう。相対化は思考の入り口に過ぎず、楽しい破壊行為のあとは必ず出口を見出すというつらい工程に進まないといけない。

耳そぎ饅頭

 

 

町田 康著。偏屈を自称する著者が、その偏屈さを治すため、これまで遠ざけていた世俗の様々なことを体験するエッセイ集。その意味では、穂村弘の「現実入門―ほんとにみんなこんなことを?」に似ていると言えるが、著者が町田康である以上、中身は当然全く違う。こちらはこちらで大変面白い。偏屈な人間は何をやっても偏屈であり、そう簡単に変わってたまるか、という意思すら感じる町田節。面白かった。次は「人生パンク道場」を読んでみたい。

 

本書に繰り返し出てきて印象に残ったのは、「食べ物のことに夢中になる人々」に著者が抱く違和感だ。テレビでもグルメ番組が多く放映されるが、性欲に基づく行動について白昼堂々語る人はいないのに、なぜか食欲となると皆で明るく語ることについて、おかしいではないかと著者は指摘する。確かに性欲や睡眠、排せつについて声を大にして語るひとは少ないのに、食べることとなると皆でわいわい盛り上がるのは何故だろう。美味しいものを食べていれば幸せな気持ちになるのだから、それ自体は自然なことだと思うのだが、同じ本能に基づく行為なのに食欲だけは別格扱いだ。

 

 

irota.hatenablog.com

 

神々の山嶺

久しぶりに再読したら、前回とはまた違った感想を抱いた。名作は、何度も読む価値がある。本作は、登山の魅力と怖さを描いた作品でありつつ、同時に山に人生を賭けた人間を深く描き切った作品でもあるから、私のように登山を趣味としない者でも感動するのだろう。

 

待っていても誰かがそれを与えてくれるわけではないのです。欲しいものがあれば自らの手でそれを掴み取るしかないのです

 

これはナラダール・ラゼンドラの台詞だが、本書に出てくる登場人物に共通している思想だろう。自分が動かなければ、何も得られないのだ。当然のことながら、山の頂上が見たければ自分で登るしかない。

 

あと何年か何十年かわからないが生きてゆかねばならない。死ぬまでのその時間を何かで埋めなければならない。どうせその時間を埋めるなら、踏めないかもしれない頂に向かって踏みだしゆくこと、そのようなもので埋めるのが自分のやりかただろう

 

これは深町誠の台詞。実際には、深町はこの台詞のとおりには覚悟を決め切っておらず、何度も何度も逃げ出そうとしては踏みとどまることになる。読者は、そうした深町と一緒に本書を進めるからこそ、最後の登頂シーンに大いなる感動を抱くのだろう。

 

生きた時間が長いか短いか、それはだたの結果だ。そういう結果のために山に行くんじゃない!不幸か幸福かだったなどもただの結果だ!そういう結果を求めて山に登っているんじゃない!

 

これは羽生丈二の台詞であり、本書の最も根幹を流れる思想だ。結果ではなく、過程にこそ意味がある。だから(ヘリコプターで頂上に行くのではなく、)山に登るのだ。山に答は落ちておらず、頂を踏んだところで人生の問題は解決しない。それでも、頂に向かう、その過程にこそ人生を費やすのだ。

 

死はいつもその途上でその人に訪れるのです。その人が死んだ時、いったい何の途上であったのか。たぶんそのことが重要なのだと思います。

 

最後はN.E.オデルの台詞。最後に死が待っているのではなく、何かの途中で突然に死は訪れる。だから、大切なのは、今自分が何をしているのか、何に向かっているのかということだ。

 

改めて、素晴らしい作品だと思う。エベレストとは言わないが、私も山に登りたくなってしまった。

 

irota.hatenablog.com

バンガロー

金曜日は子どもの授業参観。午後も休みをとって夕方からバンガロー泊(バンガローとコテージの違いが良く分からない)。バーベキューをしたり、花火をしたり、焚き火をながめてぼんやりしたり。デジタルデトックス。もう少し星が綺麗に見えたらよかったのにな。次の日も、寺を散策し、銭湯につかり、牧場のジェラートを食べて帰る。コロナ禍のためにキャンプ場は混んでいると聞いていたのだが、梅雨の合間だったためかどこも閑散として、想像以上にのんびりできた。もう少し安ければ、頻繁に出かけられるのだが。