「盗人にも三分の理」という諺がある。コトバンクによると、その意味は「盗人にも、盗みをするにはそれ相応の理由がある。非難すべき行為におよぶ者にも言い分はある。また、どんなことにも理屈をつけようと思えばつけられること。」とある。
この世のあらゆる物事は多面的に評価され得るものであり、盗人にでさえ三分の理があるのだから、結論を先に決めてしまってからそれを補強する事実を見出すのは容易いことだ。したがって、ナチスに限らないが、「〇〇は良いこともした」という主張を展開すること自体は可能だろう。
しかし、その主張は単に「言いたいことを言っただけ」のものであり、聞く人からすると「で、何が言いたいの?」という疑問が浮かぶ。素直に〇〇を肯定したいのか、それとも別の何かを擁護したいのか、一般に善とされているものを相対的に貶めたいのか、実はよく分からない。だから、その主張の背景(ねらい)を類推し、レッテルを貼られることになる。
一昔前の、常識とか教養とか、何かしらの共通認識が強固な時代においては、あらゆるものを問い直そうとする相対主義に一定の意味があったのかもしれない*1。しかし、今は分断の時代である。何かを肯定すれば「お前はそっち側につくんだな」と言われ、何かを批判すれば、やはり「お前はそっち側につくんだな」と言われる。敵と味方に分かれて、SNSを用いて高い壁をつくり、攻撃と防御を永遠に行い続ける、陰謀論が幅を利かす現代において、「〇〇は良いこともした」という主張をするのは覚悟が求められる(はずだ)。
あえて極論を展開して分断を深めるのは、ある意味で「効率的」なのだろう。注目を浴びやすいし、一定の賛同者が得られるだろうし(盗人にも三分の理なので)、仮に正論を返されたところでまともにやりあわずに揚げ足をとったり、「論破」したことにして単独勝利宣言をしてしまえば自分達の輪の中では認められる。議論を通じて「正しさ」に近づくことが目的なのではなく、言い切ることで相手をやり込め、自分をアピールすることが目的ならば、極論(と嘲笑的態度)はなかなか効率的だ。
議論というものが、勝ち負けの見世物ではなく、あちらこちらをいったりきたりしながら、むしろそれを行う中で自分の意見が形作られていくような、そんなものであってほしいと考えるのは、残念ながら時代錯誤も甚だしいのかもしれない。
*1:が、全てを徹底的に相対化することで新たな世界が現れるという希望は、幻想だろう。相対化は思考の入り口に過ぎず、楽しい破壊行為のあとは必ず出口を見出すというつらい工程に進まないといけない。