雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

休校の影響

新型コロナ感染予防のため学校は休校しているが、低学年の子は預かってくれるとのことで、毎日長男と学校まで歩いて通っている。お弁当をもたせて、学習用のプリントや読書用の本をリュックに入れ、通学路を色々な話をしながら歩く。少ないながらもクラスの友達も来ており、体を動かして遊べる時間も少しはあるようで、案外本人はそれほど嫌がっていない。良く本を読み、最近はけん玉を頑張っているようだ。

 

一方で、クラスの友達は家で過ごしているとか、祖父母の家に行ったりしているという噂を聞くようで、「僕も毎日行くのは嫌だな。たまにはお休みとってよ」と頼まれるのだが、むしろ私は仕事が加速的に忙しくなっており、朝、子どもを学校に送り届けるので精一杯という悲しい状況。ごめんね。

 

どうも世間では、この間に子どもが外で遊びまわっていることに対して「学校休校の趣旨が分かっていない」と不満を抱く方も多いようだ。街に出てカラオケやゲームセンターに行っては叩かれ、家にこもってゲームばかりしていても叩かれ、公園で遊んでも叩かれるのは、さすがに子どもが気の毒だ。子どもは囚人ではないので、1か月間もおとなしく家の中で待機することはできないだろう。

 

休校なのに子どもを学校に預ける親に対する非難も耳にする。子どもの感染のリスクを少しでも高める行為だという批判なのだろうが、一方で誰も私の仕事をしてくれない(休めない)し、仕事を辞めては生活していけないし、一体どうしたらよいのだろうと悩む。「子どもの安全を第一に考えるべきでしょ?」と言われたら、返す言葉はないのだけれども、じゃあどうすりゃいいねんって。

 

「学校は教育機関であって子どもを預かる施設ではない(先生の本業ではない)」「親が責任をもって子どもを見守るべきだ」といった意見を見るたびに、どうも違和感を抱いてしまう。学校制度の本来の目的が教育であることは当然として、一方の実態として学校は子どもが一日の大半を過ごす居場所であり、そこに子どもが居ることを前提として大人は労働を行い、そうした社会システムを作り上げて現代日本社会が成り立っているのではないのだろうか。

 

もうひとつ思うのは、人間には「所属」や「居場所」が必要で、子どもにとっては学校がひとつの居場所だ、ということ*1。自分がここにいて良いのだ、という意識は、誰にとっても必要だ。その居場所がどれほど素晴らしいかは人それぞれ違うだろうが、それでもその人なりに大切な居場所であり、少なくとも自らの意思に反して居場所を失うのは、悲しいことだ。

 

果たして、ずっと春までどこにも出かけずに、子どもは家で親と過ごせるだろうか。まだ休校スタートから一週間しか経過していないが、今後、多くのSOSが家庭から出てくるだろう。もっとも、悲鳴をあげるのは子ではなく、親からなのかもしれないが。これからの一か月間が、子どもにとって何らかのプラスとなるような過ごし方ができるといいのだが、率直に言って不安の方が大きい。 

*1:もちろん、子どもの居場所を学校だけに限定する必要はなく、むしろ複数あった方が精神衛生上よいのだが、それはまた別の話。