雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

大人には春休みがない

子どもにとって当たり前の休みが、当たり前ではなかったことに気づかされる春休み。宿題はないし、気候は良いし、桜は咲いてるし、どこか遠くへ出かけたい気分だけれど、そうはいかないのがコロナ禍か。仕事も忙しいし、結果的に子どもは祖父母に預けることになる。公共交通機関の利用も避けることになり、延々と車でドライブ。音楽だけを心の支えに運転するが、疲れた。次に車を購入する際は、運転サポート機能と車内でDVDが観られる装置をつけたいところ。

 

春は「変化」の季節であり、良い面もあればつらい面もある。どちらにしても心はストレスにさらされるもので、それは子どもも大人も同じ。変わることを楽しめば良い、と心がけつつも、無理をしてはいけない季節なのだ、ということがようやく分かってきた40代。

 

家の庭木もいつの間にか芽吹き、冬に球根を植えたチューリップが花を咲かせ、少しだけ世界が色づいてきた喜びを感じつつ、公園で子どもとキャッチボールをする休日。春休みはないけれど、いつの間にか春なのだなあ。

訃報:田中邦衛

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北の国から」は、全て見た。通常版も、スペシャル版も全部見た。家族愛を、そして人が生きるということの意味をストレートに描いた、唯一無比の作品だ。全ての登場人物が重要なドラマだが、やはり田中邦衛が主人公である。邦衛さんは死んでも、黒板五郎は私の心のうちに生き続ける。

春の週末

木曜日は残業。年度末進行ということもあり、なかなか帰れなかった。金曜日は代休。銭湯に行く。いまだに「ととのう」という感じはよく分かっていないが、サウナと水風呂に入ると、気持ちの面ですっきりはする(解放感はある)。その後、休憩室で何気なく「鬼滅の刃」を手に取ったらこれがなかなか面白くて止められない。

 

土曜日。伊賀市へ出かけ、忍者ショーを見る。派手さはないものの、迫力があって面白い。ここでしか見られないので、行けてよかった。この日はデザートにイチゴパフェ、夜はとんかつ、風呂は温泉と贅沢三昧。そして日曜日は大雨。買い物に行ったり、市民プールで泳いだり。

 

複数の居場所を確保する

人手不足の部署の応援のため、2週間ほど派遣勤務をしてきた。仕事内容はもちろんのこと、場所も同僚も何もかもが異なるので大変なこともたくさんあったが、終わってみれば良い経験だった。

 

今回の経験で気づいたのは、固定された職場にずっと居ると、見るもの聞くことやること全てが「同じ枠組みの中」になるので視野が狭くなってしまうということ。視野が狭くなると、その狭い世界は「深く」潜っていくことになり、些細なことが重要に思えてくる。毎日同じ人と同じようなことを話しながら同じような仕事をしていると、わずかな違いが気になったり、いつもと違う事態が起きただけで「異常事態」が発生したかのように警戒してしまう。

 

今回、わずかな期間ではあるが外の世界で働いて元の職場に戻ってみると、自分の仕事がいかにどうでもいいことであるのか、不思議なほど冷めた視線で見ている自分に気が付いた。誰がどう言っただの、あの人が文句を言っているだの、ルールの解釈がああだのこうだの、「それが一体何だというのか」とつい言ってしまいそうになる。

 

もしかしたら、私はこれまで自分の周囲の世界を必要以上に重く捉えていたのかもしれない。または、皆神妙な顔を浮かべて仕事をしているけれど、本音では「まあ、どうだっていいんだけどね。」とか、「知らんけど。」とか、心でつぶやきながら働いているのかもしれない。

 

自らの世界を狭く深く切り取ってしまうと、重くゆがんだものとなる。しかし、世界はそんな一面的なものではない。自分にとってどれほど重要に思えることも、他人からすれば実は「どうだっていい」のだ。多面的に世界と向き合うには、複数の居場所があることが望ましい。それは仕事だけでなく、学校でも家庭でも同じことだろう。主たる居場所が、嫌々ながらも抜け出せないという場合もあるが(私もそうだ)、他の居場所を確保することは可能だろう。自分の居場所は自分でつくる。やりたいことは、自分で探す。

マスク

マスクをつける生活も、すっかり日常となった。一年前はマスクが店においてなくて、争奪戦になったり、自分で作ったりしていたこともあったが、今では予備のストックも含めて不織布、布、ウレタンマスクとたくさん置いてある。外では必ずマスクをつける、まるでナウシカの世界だ。

 

以前、とある特殊業務のためN95マスクを装着して作業にあたったことがあるが、あのときは本当に息苦しかった。「吸っても吸っても空気が入ってこない」状態に恐怖を感じ、このままでは呼吸困難で倒れるのではと半ばパニックになり現場を離れてマスクを外したこともあった*1

 

胸いっぱいに息が吸えるということは、ありがたいことだ(マスクをつけて息苦しいときは、まずは息を吐き切ると良いようだ)。子どものころ、喘息持ちだったこともあり、余計にそう思う。家に帰ってマスクを外して大きく深呼吸すると、ほっとする。精神を落ち着かせるために深呼吸するのは正しいと、改めて理解した。

 

それでも、まだマスクを「気分」でつけている人もいるようだ。先日見かけた年輩の男性は、最初はマスクをつけていたのだが、自分が話す場面になるとマスクをあごまで下げてしゃべり(話し終えるとまたマスクを戻す)、手元の資料を見るためにまたマスクをずらして指をなめながらめくっていた。それ、マスクを着けている意味が全くないですよ、と思うのだが、おそらく無意識の動作なのだろうし、その都度注意してもキリがない。しかし恐怖を感じる場面であった。

 

たかがマスク、されどマスク。マスクなしで他人と会話できる日常は、また戻ってくるのだろうか。

*1:そのときはゴーグルもしていたのだが、曇って何も見えなかったので、余計にパニックになったのかもしれない。

くよくよと悩んでいるときに思い返すべきこと。

  • 一般論として、人は、他人の人生に興味がない。
  • 人が何をしようが、生きようが死のうが、基本的にはどうでもいい。
  • 人生に所与的な意味を求めても、答えはない。
  • 人生の意味付けは、自分ですべき仕事だ。
  • 私は、他人からすればどうでも良い存在であり、かつ普遍的な意味も与えられていない。それが意味することは、解放だ。
  • 人生は一瞬で、死は必然だ。
  • 50億年後には、何も残らず、無に帰る。
  • 死にたいと悩む必要はない。人生をどう使い切るべきかだけ考えよ。