雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

ジョルジュ・バタイユと「蕩尽」の問題

呪われた部分 (ジョルジュ・バタイユ著作集)

呪われた部分 (ジョルジュ・バタイユ著作集)

バタイユ入門 (ちくま新書)

バタイユ入門 (ちくま新書)


 『呪われた部分』は難しかったので、入門編と合わせて読んでみた。バタイユについて興味を持った点は次の2つ。ひとつは、「戯れ」について。もうひとつは、「蕩尽」の概念だ。



 前者について。物事を「笑う」ことによって、その権威や序列の枠組みを無化してしまう。思想における笑いの力は、場合によっては反論よりも根本的な意味において「強く」「深い」ものなのかもしれない。そしてあらゆる合目的行為が無意味になるとき、残されるのはヘーゲル的な「歴史の必然」でもマルクス的な史的唯物論でもなく、ましてやキリスト教的な原罪でもないのだろう。そう、「体験」のみが残るのであり、体験が終わるときに、その権威も序列も消えうせてしまうのだ。


 ・・・と、書いてはみたものの、正直なところ実感としてよく分からない。ギリシア風に言うのならば「ディオニュソス的」であり、ハイデガー風に言うならば「存在が開示される」ということであり、ニーチェ風に言うのならば「そうか、これが人生か。それならばもう一度!」なのだろうか。私には分からない。ただ、笑いについての洞察は、その通りだろうなと感じた。


 で、問題は後者の「蕩尽」論だ。バタイユは、私達の生産行為は全て「非生産的に消費(=蕩尽)」されるためにある、と述べた。これはものすごいことを言っているのではないか、と思うのだがどうだろうか。人間の行為をこのように貶めて/または無価値に/おそらくは現実的に位置づけた考えを私は初めて知ったのだ。


 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によると、生産はそれ自体が神の祝福される行為であるから別の位置づけをする必要はないし、近代資本主義の枠組みにおいては、勿論生産および余剰は更なる生産手段を確保するためと位置づけられている。史的唯物論であれば生産は技術の改良を生み、搾取された余剰は革命の起爆剤になる、ということだ(・・・と思う)。少なくても、生産は肯定的に捉えられており、私達は誠実に人生を送るためにも何かしら生産していこう、という態度を受け入れていたのだと思う。


 もちろん、おそらく誰にでも思い浮かぶ考えなのだろうけれど、「生産は消費のためにある」という考えは私も持っている。ただ、この場合で言う「消費」とは必要に応じて発生するものであって、あくまでその都度現われては消えるものであった。消費は生産に一対一対応をしているのであって、「(消費という必要に応じて行われた)生産の副産物である余剰」の説明については、このような消費の捉え方では説明できなかったのだ。


 しかし、バタイユの見方はそこが違う。我々は余剰を非生産的に消費する義務を負っている、と述べたのだ。どうも彼の主張の根本にあるのは、地球に過剰なエネルギーを半永久的に与え続ける太陽の存在にあるようなのだが、ともかく、我々は余剰という使い道に困るような恩恵を抱えているわけだ。バタイユはその典型的な事例として、祭典や豪華な建築物、そして戦争を挙げている。なるほど、私達の社会が経済的に大きくなるに連れて確かに戦争の規模も被害も大きくなっている。社会の進歩に使い切れなかった余剰を非生産的な戦争という形で消費しているのだ。


 他にも思いつくままに具体的な事例を挙げてみよう。

  • 「500億円もらったら何に使う?」という質問をされると何故か困ってしまうとき
  • 使い切る必要のある莫大な公共事業費から生まれる不思議な道路
  • 頑張って働いて蓄えた貯金を、貴金属やブランド品、フェラーリなどに使ってしまう人
  • ダイエットに励む人が、「今日頑張って運動した自分へのご褒美」としてケーキを食べること
  • キン肉マンの火事場のクソ力を吸収しきれなかったバッファローマン
  • 使い切れずに結局権利が消滅してしまう有休休暇
  • 飽食の時代におけるエネルギー摂取と肥満の問題
  • 知識の蓄積という牧歌的な時代を過ぎてからの、情報収拾の結果による情報洪水の問題
  • http://d.hatena.ne.jp/kagami/20070612#p1


 ・・・まあ、見当違いなものもあるかもしれないが、私の感覚でも「余剰の処理に困る」事態というのは結構あるのではないかな、と思うわけだ。しかし、そうであるならば、我々の生産行為は一体何のために為されているのか、という疑問が当然湧いてくる。そこに待つ答が「無意味に消費するために生産するのだ」というものであった場合、愕然としてしまうが、どうにも否定できないから参ってしまう。貯蓄が美徳であると教え込まれてきた日本人としては受け入れがたい考えなのだが、やはり正しく思えてならないのだ。


 働くという行為*1それ自体に価値を認めることには私も賛成だ。ここで別にプロテスタントである必要は無いわけだし。ただ、働いて得た余剰についても何かしら肯定的な捉え方をしていかないと、明日も働こうという意欲が失われてしまう気がする。どうしたものか。


 煮詰まってしまったので、とりあえずここまででupしてしまおう。


 

*1:これは過程と呼んでも良いし、体験と言っても良いだろう。