雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

タイヤがパンクした

 スタバの駐車場に停めていたら、車のタイヤがパンクしていた。「白昼堂々といたずらか?」と少しパニックになるも、すぐ隣がカーショップだったので相談しにいく。無愛想な店員にタイヤ交換が必要と言われ、結局2時間待ちで修理してもらった。待っている間、本を読みながら昼食をとっていると、ようやく悔しい気持ちが起きてきた。なんでこんな目にあうんだろう、余計な出費に腹が立つ、何故あの店員はあんなに無愛想なんだろう、ああ私は不運だ不幸だ、と他の記憶まで引っ張り出して落ち込む始末。


 以前読んだ「モリー先生との火曜日 - Tuesdays with Morrie【講談社英語文庫】」からの受け売りだが、こういうときは気にせず落ち込んでしまうことにしている。反省も後悔も分析もなく、ただ落ち込む。何も考えず、理性を飛ばして思いっきり感情的になってしまうのだ。そうしてしばらくすると、気持ちが少し落ち着く頃には自然と色々なことを考えだして、冷静に現状や自分自身を分析したりしはじめる。


 現状はどうなっているのか、何を被害を被ったのか、何に対してショックを受けているのか、自分に責はないか、このショックをひきずる必要はあるか、今後どうすべきか、等々。考えてみれば、タイヤの状態をほとんどろくにチェックしていなかった私も悪いし、タイヤも前に交換してから3年を超えていたから、少し古くなっていたのかもしれない(大体4年から5年が寿命らしいが)。走行中にパンクしていたのかも知れず、そうだとすれば気付かずに運転していなくて良かった(不幸中の幸い?)。出費は痛いが、数千円の話なら諦めもつく。ただ、あの無愛想な店員の態度に対してはどうにも納得できなかったので、仕方なく「あの店の店員は皆ああいうやつなんだ」と勝手に偏見を固めて差別することで落ち着かせることにした。


 嫌なことであればあるほど、それを引きずらないことが大事なのだろう。時間軸レベルで捉えたところの「過去の出来事」を、すぐに認識レベルにおいても「過去の出来事」とみなせるほど柔軟な態度が取れれば良いのだが、これはなかなか簡単なことではない。けれども、切り離すべき過去を背負い続けていくのはあまりにも不合理だ。過去を過去にして葬ってしまうこと、こうした気持ちの切り替えをするための手段のひとつが、上に書いた「とりあえず気の向くままに感情的に落ち込んでしまう」ことであり、私は今のところこのやり方が性に合っているようだ。