突然だが、私は黒澤明監督で三船敏郎主演の映画が大好きだ*1。先日、ふと「『椿三十郎』がリメイクされている」という記事を見たのだが、何やらそれだけで腹が立ち、その後予告編を見て「許せない」と思ったのだが、果て一体これは何に対する怒りなのかが、自分自身で分からない。(注:以下、「原作より素晴らしい作品になるわけが無い」という思い込みに基づいた文章です。)
監督や出演俳優に対する不満は、まあ無いわけではないが、本来は作品を観なければ評価出来ないことだろう。原作の脚本をそのまま使うという、制作側の安易な姿勢については多少の不快感を抱くけれども、それは原作に対する敬意だと捉えれば怒ることでもない。良作だろうが駄作だろうが、必死に盛り上げて宣伝するのは映画会社の使命であるので、それに腹を立てても仕方が無いし、大体私は日本の映画業界を案じる立場の人間でもないわけで。リメイク版を見て喜ぶ人がいるのであれば、それは他人がとやかく言うことでもあるまいし、それで原作の良さが損なわれることなどありえない*2。
と、ここでようやく怒りの原因に気づくのだが、結局私は『椿三十郎』という作品を「所有」していると勘違いしていた、ということのようなのだ。あまりに思い入れが強すぎるためか、または単に何度も見過ぎたためか、作品を勝手に擬似所有してしまい、この作品がリメイクされることを「神聖な原作が汚されてしまう」などと感じてしまっていたらしい。単なるファンだったつもりが、いつの間にか対象との距離感がつかめなくなってしまうとは恥ずかしい。真面目に「ハルヒは俺の嫁」と言うような。
ということで、自分が好きな作品がリメイクされるということについては、良作が形を変えて共有されることであると受け止めて、本来は喜ぶべきことなのかもしれないと思えるようにはなった。とはいえ、いざリメイク版を鑑賞しようとすると、どうしても原作と比べながら観てしまいそうな気がするし、それではきっと鑑賞を十分に楽しめないだろう。そういう意味では、やはりリメイク作品(映画にしろ音楽にしろ)は作ることも鑑賞することも難しいものなのだろう。