雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

フライパン(2代目)、ホットサンドメーカー

 

北陸アルミ フライパン センレンキャスト 28cm 「ガス火専用」

北陸アルミ フライパン センレンキャスト 28cm 「ガス火専用」

 

 

 前回購入から2年、テフロン加工が剥げてきたのか、こびり付きが気になってきた。2年間よく活躍してくれたとの思いから、同じ製品を購入することに。届いてみると、やはり新品はすごい。チャーハンもホットケーキもお好み焼きもするするっと剝がれるので気持ちいい。

 

 

イタリア商事 ホットサンドメーカー ニュー・バウルー ダブル BW02

イタリア商事 ホットサンドメーカー ニュー・バウルー ダブル BW02

 

 

  あわせて、以前から欲しかったホットサンドメーカーを購入。早速、翌朝にベーコンとチーズとトマトとバジルを挟んで焼いてみた。トーストとは異なり、具材が熱く、トロトロだ。外はカリッと中はしっとり、大変に美味しく、また家族からも評価が高く、これは買ってよかったかもしれない。

 

 

梅雨の晴れ間の有効活用

 まだ梅雨は明けていないが、毎日蒸し暑く、夕方には雷雨。職場も寝室も暑くて倒れそうだ。庭ではトマトが次々に朱く色づいてきた(ナスもとれた)。もう夏なのだなあ。

 

 今日は友人家族と一緒に、近所で川遊び。梅雨の最中だからか、水量が豊富。水着の子どもと遊んでいたら、びしょ濡れになった。お昼を食べていたら雷の音が聞こえたので、慌てて帰宅することに。バーベキューなんかしていたら大変だったろうな。

 

 夕方は虫取りに出かける。近所の裏山に行き、クワガタを捕獲。長男はカブトムシが良かったようで、少し残念(もっと遅い時間の方がよかった?)。またの機会に再挑戦。その際は、もっと蚊の対策を徹底することが必要だと反省。帽子と軍手をしておくべきだった。

幸福の哲学

 

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵 (講談社現代新書)

 

 

 岸見一郎著。幸福である、ということは一体どういうことか。どうしたら人は幸福になれるのか。アドラーを中心に、多くの哲学者のことばを引き合いにして考えを導く書。

 

 何故か私はこの本を繰り返し読んでいる。新書なので、それほどボリュームのあるわけでもないが、何度も読み返したくなる。それは本書の結論が気に入ったからでもなく、著者の考え全てに納得したからでもない。おそらく、著者の問題意識が私のそれと似ているからなのだと思う*1

 

 自分には、自由意思があり、外形的な力によって決まる受動的な存在ではない。したがって、自分の下した責任は、自分で負わなくてはならない。自分は、世界の一部である(中心ではない)。自分は、他者と共にある。・・・そうした前提を踏まえたうえで、はじめて幸福を論じることができる。

*1:「嫌われる勇気」を読んだ時も同じ感覚を抱いた。

HUNTER×HUNTER (34)

 

HUNTER×HUNTER 34 (ジャンプコミックス)

HUNTER×HUNTER 34 (ジャンプコミックス)

 

 

 唐突に始まるクロロ対ヒソカ戦。この後の展開が、王位継承戦とどうかかわってくるのか、そして第35巻はいつ読むことができるのか、楽しみと不安が入り混じる。ハンターハンターの新刊と、ヒストリエの新刊は、どちらが先なのだろう。

新居祝

 友人から引越の報せがあり、和歌山へ行く。緑豊かで海も近く買い物等は便利と素晴らしい立地で、しかも室内は広いしウッドデッキ付きの庭まである。よくもこんな物件があったものだと感心するレベル。うらやましい。

 

 冬に生まれた娘さんも半年経ち、もうすぐハイハイをしそうな予感。一緒に訪問した友人も、年内には下の子が生まれると聞き、なんだかみんな順調に幸せに暮らしているなと感じた(もちろん各自、いろいろ大変なこともあるのだろうが)。

 

 せっかく和歌山まで来たのだし、ということで昼はラーメン、夜は魚料理。日帰り強行日程なので結構疲れたが、たまには楽しい小旅行。

今、生きている自分がここにいるということ

 生に意義や意味や理由などは与えられておらず、各自それぞれが生きていく中で意味づけをするものだろう。自分の人生はその人のものなのだから、どのように生きてどのように死ぬのかは、他人がなんと言おうと、また他人になんと思われようが、皆それぞれ好きなようにすればよい。その代わり、他人にはその責任をとれないという点は理解しておく必要がある。

 

 生は代替性がなく、「2回目」もなければ、「交換」もない、自分にとって一度だけのものだ。どうせいつかは皆死んでしまう。「死んでしまうからすべては無意味」とは思わない。むしろ、いつか来る死の前に、何をしたいか、何を残したいか、という点に焦点を当てることになる。

 

 これは、幼い子でも、親であっても、高齢者であっても変わらない。いつ死ぬかなんて、誰にも分からない。過去に報いるために生きているわけではないし、未来の安定のみを目指して生きているわけでもない。今、生きている自分がここにいる、という点をもっと意識すべきだ。

 

贅沢な一日

 ヒメシャラと紫陽花の花が咲いている。梅雨の日曜日は、意外にも快晴。夫婦ともに運動不足を解消する狙いもあり、少し遠出して、行ったことのない公園へ。出かけるまでは面倒くさそうにしていた長男も、着いた途端に駆け出して、初めての遊具に果敢に挑戦し、原っぱにいる昆虫を捕まえ、とても楽しそうだった。

 

 風が気持ち良い爽やかな天候の下、少し汗ばむほどに身体を動かし、草木に囲まれて昼食をとる。日頃の鬱屈した気持ちが解消され、凝り固まった心と体がほぐれていく。そうだ、自分はこうした時間のために働いているのだった、と、ともすれば忘れがちな「働く理由」を再確認する。子どものために働いている、という考え方も間違いではないかもしれないが、子どもがいるから働き続けられている(エネルギーをもらっている)、という事実もまた真なのだ。

 

 帰りに老舗の茶屋へ行き(店舗は2年前にできたばかりらしく、新しくて綺麗だったが)、妻は抹茶パフェ、私と長男は焙じ茶パフェを頼む。大人には実に美味しかったのだが、残念ながら(?)、この上品な苦みと甘みの組み合わせは子どもにはまだ早かったようだ。「スシローのパフェの方がよかった」とは、さすがに酷い台詞だと思ったけれども。

 

 夕食はシラス丼、エビとアボカドのサラダ、茹でたトウモロコシにビール(アサヒのドライプレミアム)。家族でNHKの「ダーウィンが来た」を観ながら、今日はなんだか贅沢な一日だったと感じた。きっと数年後、数十年後に振り返って、本当に贅沢な一日だったんだなと思い返すのだろう。