全て見るには3日あっても足りない、などと評されているらしいが、素人にとって
は、まあどうでもいい話だ。なぜなら、巨大美術館はとても疲れるのだ。一日中見
て回るにはよほどの体力と芸術への強い好奇心が必要であって、以前プラド美
術館へ行った時と同様に、半日で疲れて外に出たくなってしまった。おそらく
その疲れは単なる肉体的なものだと思うけれども、もしかしたら、日頃体験
しない類の刺激が続いたので驚き疲れてしまったということなのかもしれない。
私には美術的素養が無いので、館内の作品名も作者名も興味なく、ただぼん
やりと眺め歩いた。おぼろげながら事前に知っていたのは『モナ・リザ』、『ミロの
ヴィーナス』、『ナポレオンの戴冠式』くらい。ま、素人なりに楽しめたのではない
かな。ちなみに一番印象に残っているのはナポレオン三世の部屋群。
『モナ・リザ』は、現物を見れてよかった。いつどこでどういう風に教育されたの
か知らないが、いつからか「『モナ・リザ』は世界一の絵だ」と思い込んでいて、死
ぬまでに一度是非拝見したいと思っていたのだ。実際に目の前にある絵を見たと
きは、感動というより、「ありがたやありがたや・・・」という気分で、拝んでた気が
する。ミーハー。
ルーブルへ行って思い出したのは、プラド美術館で見たゴヤの『巨人』。あの時
一目見て衝撃を受け、硬直したようにずっとその絵を見続けたことを、ぼんやりと
思い出していた。芸術全般に対する感受性の無さは自覚しているので、そうした
不思議な感覚はとても貴重で甘美なものなのだ。絵を見て感動する、というのは
どういう現象なんだろうか。
作品の素晴らしさなどは、私なんぞが語るところではない。私が作品群に包ま
れて感じたのは、歴史だ。過去から未来へ向かって進歩していく矢印としての歴
史ではなくて、もっと純粋に、「嗚呼、これを作った人が確かにいたんだなあ」とい
うとても当たり前の事実。私はモノを通してのみ過去を体験できる。このモノは
500年前に作られたもの、ということは、500年前にこれを作った人がいて、この
モノは500年間存在し続けた、ということ。こんな単純な事実が嬉しいのだ。大
丈夫、世界は続いているんだ、なんてことに安心する。・・・って、電波か?
美術館の出口付近では、ツタン・カーメン像の着ぐるみが商売していた。ずっと
立ちっぱなし、唯一の動作はお辞儀だけ。小銭たまりまくり。賢い仕事だ。
隣の公園で鴨を眺める。地面を歩く姿が可愛らしい。