雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

無償の愛?

 「愛の話 幸福の話*1」を読んでいて思ったのだが、「無償の愛」論はどこかおかしい。気付いたことを以下にメモしておく。

  1. 無償の愛とは、見返りを求めない愛である。
  2. 無償の愛は、恋から生まれ、恋を超越するものである。
  3. 無償の愛は恋とは異なり、自身の欲望(所有欲、虚栄心および肉欲等)に基づかない。


 以上のようなものを「無償の愛」といい、これを最良のものと位置づける主張をする者は美輪明宏に限らず多いと思う。私もそうした無償の愛とやらに敬意を払いたい気もするのだが、残念ながら「無償の愛は存続し得ない」のではないか、と思う。なぜならば、無償の愛は、その定義故に「対象を特定することができない」からである。なぜ特定できないか、それは「私が何も求めない」ならば相手は誰でも良いことになってしまうはずであり、対象はカオス化(←適切な言葉が出てこなかったのでとりあえず)せざるを得ないからである。


 無償の愛が誕生したならば、「○○さんを無条件に愛する私」と「無償の愛という行為をしている私」に区別があってはならない。見返りを求めないならば、なぜ愛を提供する対象が「AさんでもBさんでもない、この人」だけなのか説明がつかないではないか。無償の愛をAさんに捧げることと、Bさんに捧げることの違いは何なのか、私にはさっぱり分からないのだ。だが、無償の愛を信じる人たちはこう言うかもしれない、「いや、あくまで恋から生まれるのが愛である以上、歴史的制約から相手は特定されるのだ」って。別にそれならそれで構わないのだけれど、そこにはもはや無償の愛の本質は無いのでないか。そこにいるのは、結局のところ「愛している人と、○○したい自分」なのではないか。まあ、確かに○○には、所有欲や見栄や肉欲とは異なるものが入るのだろうけれど、例えそれが「近くにいたい」とか「笑顔が見たい」であろうと、それは代償を求める気持ちであり、欲望に他ならない。


 私は、欲望の形態が異なるという理由をもって、他の欲望を低俗なものとして蔑む根性が気に入らない。基本的には、「欲を切り捨てるべき」という発想に美しさは生まれ得ないのではないのではないかと考えている。そして私は、自身の欲望を自覚した上での、かつ十分に見返りを求めた上での愛情を強く肯定したい。それはつまり、「あなたと一緒に幸せになりたい」というやつだ。


 蛇足だが、対象がカオスである愛情は、つまるところマゾヒズムであり自己陶酔である以上、自己愛とさして変わらない。また、欲望を捨てた人間は、そもそも愛を必要としないので、きっと誰も愛さないだろう。

*1:美輪明宏は実に多面的で層の深い人のようで、私が書いたような上っ面な雑感では批判にもならないだろう。この本自体は、面白いし読む価値があるものだと思った。