雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

参議院選挙

 自分が社会的にどう評価されるか、という観点から考えると、知人やマスコミから「投票に行きましたか?」と聞かれたときの回答は「行きました」以外にはあり得ない。何故なら、例え投票しなかった場合でも、「忙しかったから」とか「面倒だったので」、「興味が無いので」という正直な回答をして得られるものは何もないからだ。


 その際に最も避けるべきなのは、自己を正当化しようとして無理に理屈をつけることだ。投票しないことの正当性を社会に対して述べることほど馬鹿げたことは無い。

  • 「選挙では何も変わらないから」→この理屈では、個人の行為は社会的には正当化されない。それに、「では貴方は投票以上に社会的価値の高い行為をしているのか」と聞かれたときに説明することは困難だろう。
  • 「どの政党も信頼するに値しないから」→多くの人が消去法で投票している事実に対して、あまりにも鈍感過ぎる。信頼も明るい希望も無いけれど、少しでもマシになってほしいから、投票する人は色々考えているんだというのに。
  • 「投票しない、というボイコット行為を通じて政治活動をしている」→(どの候補者/政党に投票するかということよりも、)実際には「投票率を上げる」ということにこそ個々人の投票の意味合いがある、と考えるべきではないだろうか。従って、投票しないことは「政治活動をしていない」こと以外には解釈できない。


 選挙に行かない、ということは、結局「私には他にしたいこと/すべきことがある」という個人的な理由によるものであって*1、無理に正当化しなくても良いではないか、と思うのだ。大上段に構えて自己の行動を正当化しなくても、「だってくだらねえじゃん」とつぶやくぐらいが丁度いいのだ。「国民が投票しないことによって政治が良くなる」なんてことを本気で考えているなら別の話だが*2


 以上により、投票に行かなかった人が「投票に行きましたか?」と聞かれたときに持つ選択肢は、「行きませんでした」と正直に言って社会的マイナスの評価を甘受するか、「行きました」と嘘をついて自分の内心に傷を抱えるか、といういずれにしても好ましくないいずれかを選ぶことになる。もっとも、私にとってはいずれもどうでも良い程度のマイナスなのだが、社会人である以上は「行きました」という答を言わざるを得ないのだろう。


 ということは、今天秤に載っているのは、「選挙に行く面倒さ」と「(投票に行かなかった場合に)嘘を言う後ろめたさ」ということになる。さあ、どちらを選ぶべきか。というわけで、近所の公民館まで散歩してきます。

*1:それは個人の行動としては合理的であり、別に問題は無いと私は思う。

*2:「無駄な参議院を無くす為に投票率を下げるのです」という理屈は、それなりに筋が通っているかもしれないし、私も参議院は不要だと思うのだけれども、実際に政治家が投票率が低いことをもって参議院を廃止することは考えられないだろう。