先日、祖母が亡くなった。103歳の大往生、まさに天寿を全うしたのだろう。訃報を聞いてもちろん悲しみや寂しさも感じたけれど、その一方で私は、祖母の凛とした生き様に畏敬の念を抱いていた。死に際してあまり苦しまず、すっと息を引き取ったからということもあるかもしれない。
私は末孫だったこともあり、ただひたすらに可愛がられていたのだが、周囲の親戚に言わせるとなかなか厳しい人だったらしい。実際、明治生まれの気骨のある、強くて美しい人間であった。また、皆が口を揃えて言うのは彼女の達筆さ。残念ながら祖母からの手紙はほとんど紛失してしまったが、手許に残してある手紙の文字を見ると、「・・・凄い」と唸ってしまうほどだ。
生きるということは、本当に大変なことである。祖母の人生を想うと、そう感じざるを得ない。長く生きれば生きるだけ、様々な出来事が起こり、社会は変わり、周囲の人には先立たれ、自身の老いと永く付き合っていくことになる。孫としては、良い報せをもっと伝えて喜ばせてあげるべきであったと反省している。
私は泣きたいときには遠慮せず泣くのだが、父は周囲には一切涙を見せなかった。それはひとつの美学なのかもしれない。悲しみが人を包み込むとき、時間が経つのを待つ外に仕方ないことは分かっているけれども、それでもあがいてみるのが人間だろうとも思う。本件においては、色々な方にお世話になり、また迷惑をかけてしまった。
改めて思い知ったのは、人は誰しも、いつか必ず死ぬのだということ。慌しい日常から離れて、そういう大切なことをぼんやり考えていた。生きると言うことの意味を考える時間と、死ぬと言うことの意味を考える時間、これが祖母から私への最後の贈り物であり、宿題でもあった。