雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

8月15日の続きのようなそうでないような。

終戦記念日 - irotaの雑記帳

Aという民族の過去をどうBに理解してもらうのか。それを考えるために、あえて法的な側面を一切考慮せず、個人的な気持ちの問題として扱うことにする。また、単純化のために民族の問題としてではなく、それぞれ和解したがっているAとBの個人的な話とする。念頭には、開拓民族と先住民との問題とか、日本と中国・朝鮮の問題とか、殺人犯と遺族の問題とか、そんなこんなをぼんやりとは浮かべながら。


まず、A自身は自らの過去をどう捉えればよいのだろう。全ての行動には理由があるとしても、それは決して1対1対応のものではなくて、複雑な内的、外的要因がからまっているはずである。したがって、その過去の行為は「そうする他に仕方なかった」ともいえるだろうし、「恥ずべき理由によって行った」とも、場合によっては「Bが悪かったから」とも言えるだろう。そうした分析は時として有用なのかもしれない。しかしいずれにせよ、今もっともAにとって大切なことは、「その過去の出来事をどう現在に位置づけるのか」ではなく、これからのBとの関係をどうしたいのか、そのためにどのようにして過去を乗り越えるのか、であるはずだ。


と、このように書いたからといって、AはBの言いなりになれば良いとか、過去の事実を捻じ曲げてでも謝罪すれば良いと考えているわけではない。第一、それでAとBとが和解できるかどうかわからないではないか。やや脱線するが、謝罪というものもひとつのコミュニケーションであり、相手の意思を無視して謝ったり全面降伏しても解決には向かわない。当然基本はお互いの意思疎通ができ、相互に理解できることを目指すものだから。有無を言わせずに土下座し倒すような人間には、逆に不信感すら生まれるだろう。「あ、この人の謝罪はポーズなのね」なんて思われて、自己満足の謝罪に終わるのがオチだ。


と、話を戻そう。Aは現在、そして未来を見つめて行動すべきだ。私達は過去の恩恵を受けて存在するが、それは過去に縛られて生きることを意味しない。今、Aは過去の行為をどう考えているのか、A自身は過去とどう変わったのか、その気持ちをBに理解してもらえるように語りかけれるしかない。過去の賛美も、形式的な謝罪も、「今のAはどうなのかを理解してもらうこと」に比べればどうでも良い話だ。


ただ、これはあくまでAという側面から見た考えであって、問題はそう簡単ではない。そもそも、「私は他者を理解している」と考えているとき、その判断材料は全て過去のものであるはずである。その人の過去の行動や発言の積み重ねを分析していく以外に、他者を理解することなどできるだろうか。であるならば、どれだけAが「昔はこうだったが、今はこう思っている。これからは友好的な関係を築いていこう」と言ったところで(そしてそれが偽ざる本心であったとしても)、それが本当であることを、どうやってBは信じたらいいのだろうか?Bの中で、Aという人間像を過去の像から新たな形へシフトできればいいのだが、それはそんなに簡単な話なのだろうか?A自身が変わることよりも、Bの中でAの像を変えることの方が難しいのではないか。ましてやそこに「恨」の感情があるのであれば。


解決のヒントは、おそらく「他者理解は、過去の行動や発言の積み重ね」というところにこそある。現在を起点にして、そこからの期間が「過去」と呼ばれるまで、対話を続ける他に方法は無いのではないか。過去は、消し去ることも変えることもできない。しかし、更新することはきっと出来る。「更新」なんて一言で語れるほど易しいことでは無いだろうけれど。確かに、他者は自分が思っているほど自分にとって都合の良い理解はしてくれないものだからね。「自分はこう思う」ということと、「相手もこう思ってくれるだろう」ということの間には、想像以上の溝がある。しかし、そうであっても、過去が日々更新されることもまた事実なんだ。


Aは自分の考えを曲げる必要はないし、BはAに対して寛容な精神が必要だ(それ以外の選択肢は、Aを殺すか、全てを忘れるかだ)。少し一般論過ぎるかも知れないが、ある問題が起きる場合、加害者Aの責任もあるだろうし、被害者Bの責任もあるだろうし、社会システム的(「そういう時代だった」ってやつね)な理由もあるのが普通。そうであれば、Aに求められるのは何だろうか。それは、兎に角自らの責任を負うことだ。「Bが悪い」と考えるのも間違ってはいないし、「社会が悪い」と言うのも構わない。しかし、Bや社会と和解したいのであれば、「私も悪い」という最もストレスの溜まる考えだけは絶対に捨ててはいけない。



何度も同じところを行ったり来たりしてまとまらないのだけれど、とりあえずここまで。