雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

相談にのるということ

 相手のことを考える、ということは実に難しい。何年生きていても、やはり難しいと感じる。何故だろう、と考えてみると、結局は「私は他人にはなれない」ということに尽きるのかもしれない。相談にのる場合も、テーマは「相手のこと」なのに、結局は自分の意見を伝えることになってしまい、この対話は本当に相手のためになっているのだろうか、と不安になることがよくある。意見を求めているように見えて、実は相手がこちらに「ただ聞いて欲しい」という場合の相談は、対処の仕方も比較的簡単なのだが。


 例えば、誰かから相談を受けたとき。話の概略の説明が終わった後で、「どうすればいいと思う?」と聞かれたときの答え方が二種類あることに気がついた。ひとつは、その話題のテーマについて、自分だったらこうするだろう、という仮定の話を説明することで、相手に対して自分なりの意見を伝えるというもの。何というか、ごく当たり前の話であって、普通に考えたらこのように答えるしかないだろう、と最近までは思っていた。ところが、今日気付いたことは、もうひとつの応対の仕方をしてしまう場合がある、ということ。それは、テーマがどんなものであれ、結論が常に「あなたが無事で/健康で/幸せでいれたら(何を選択するかは)どうでもいいよ」となってしまう、というもの。我ながら「それは答えになってない」と思うのだが、相手との関係性からそうならざるを得ない場合があるようなのだ。


 後者のような回答は、家族のような、関係性があまりにも近すぎる相手の場合に起こる。相手の身を案じすぎるが故に、そのことと比較すると、相談に対する自分の意見など大して重要に思えなくなり、上手く答えられなくなってしまうのだ。決して答をはぐらかそうとしているわけでも、具体的な考えが浮かばないわけでもないのだが、最終的なメッセージは「あなたのやりたいようにやれば良い」となってしまう。何だか冷たい。それに結果として、相手の相談に答えていないことになるので、相談者の不満を生むかもしれない。


 自分の過去のことを思い返してみると、大切なことを親に相談したときは、大抵の場合は後者の回答だったような気がする。別に私の親に限った話でもないだろう。親は、子の「いま、ここで」起きている具体的な悩みには答えてくれず、一方で子が特段案じてもいない健康問題などにばかりメッセージを伝えてくる。メッセージを受けた方としては、こうしたことに対して別段感謝もせず、むしろ「鬱陶しい」と感じるのも無理はないだろう。ただ、上に書いたような考え方が実感として理解できるようになると、これまで親にもらってきた数々の、「ありきたりな心配事」に対してしみじみと「ありがたいな」と思えてくるようになる。本当に大切なことは、具体的な個別回答では無いのだ、と遅まきながら気づくわけだ。


 だからといって、前者のような(相談に対する個別具体的な)回答は役に立たないとか、相手を案ずる気持ちが不足している薄情なものだとか言いたいわけではない。要は、相談の相手によっては(距離が近すぎるが故に?)上手く答えられない場合がある、というだけの話。もちろん、先に書いたように、相談者は「いま、ここで」の悩み事をかかえているのだから、そのことに対して考えられる限り(私にとっての、とならざるを得ないのだが)最善の回答案を示すべきだとは思う。それでも、相手によっては、まるで突き放すかのように「身体にだけは気をつけて、好きなようにやったらいいんじゃない」と答えざるを得ない場合があるのだ。