雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

医療崩壊


医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か

医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か


 慈恵医大青戸病院事件を契機として、医療についての基礎的見解と、医療界と患者、マスコミ、警察、法曹、厚生労働省らとの関係をそれぞれ考えながら、目指すべき医療界の姿を冷静かつ丁寧に書いた、重厚な本だ。私はこれまで医療について深く知ろうとしていなかったので*1、メディアの煽り記事ばかりを蓄積してしまっていたが、医療界の現場で働く著者が記述したこの本はとても勉強になる内容だった。これだけ幅広く、新鮮でかつ密度の高い情報が盛り込まれた300ページのテキストはなかなか無い。すごい。


  • 医療行為は、基本的には患者にダメージを与える危険なものである。従って、効用も副作用も必ずある。そして人は必ず死ぬ。医療は常に死と隣り合わせであり、万全を尽くしても死ぬときは死ぬ。だから、医療行為を結果だけから見て判断するのは誤りである。また、医療における安全の度合いはそのための費用と比例の関係にある。しかし、実際には医療の社会費用が減少する中で、安全の欲求は増している。
  • 医療の現場に警察が介入する事態が急増している。警察の尋問は一方的であり、そのくせ医療行為を理解する専門的な知識は身につけていない。警察の介入によって医療の現場は萎縮している。マスコミが「世論」をつくり、マッチポンプで暴走させる。警察はその「世論」に従い、取締りを厳しくしていく。
  • 人は必ず間違える。医療にもミスは起こりうる。刑罰が社会の安全を向上させるためにあるのであれば、過失致死障害罪は問題に対する回答としては間違っている。リスクコントロールに関する冷静な議論が出来ない現状では、問題解決に向かうことは出来ない。
  • 法曹界の思考は、医療の現場と乖離している。法という理念から演繹的に医療行為を罰するという思考法によって、医療の常識とは乖離した判断が出されている。このことは、決して医療における問題を解決する助けにはなっていない。
  • 医療報酬の設定は政府が決める。日本の医療に割かれるコストは、先進7カ国で最低であり(→サービスも低くならざるを得ない)、入院医療費よりも外来診療費により多くの公的費用が配分され(→現場では、病院の経営上、入院期間を短くする必要性に追われる)、外来診療報酬は大病院よりも無床診療所の方が高く設定される(→?患者は症状の程度に関係なく診療費の安い病院に受診したがるので、病院は混雑する。?医者は診療単価の高い診療所に勤務した方が収入が増えるし、勤務医のような激務+低収入からも開放される。)
  • イギリスは医療費を抑制し、崩壊した。従って患者は病気になっても医療サービスを受けられず、当然患者と医者との争いは増え、医者の士気が落ち、医者の数が減り、医療サービスは悪化する。アメリカは、完全に医療も商品であると認識しており、収入の低い人は医療サービスを受けられない仕組みになっている。医療サービスは自由市場で価格が決定される商品ではなく、公平に保障されるべき公共善である。
  • 日本の医療崩壊は着実に進んでいる。裁判リスク、患者の要望の高度化、刑罰リスク、収入格差、激務度などから、医者および看護師の立ち去り型サボタージュが進んでいる。


 と、特に印象に残った部分のみまとめてみたが、とてもこの重厚なテキストはまとめられるものではない。全ての内容に読むべき価値があると思う。そして、「医療崩壊」が素晴らしい本だからこそ、この内容に対する「適切な」反論を記した重厚な本を読んでみたいと思う*2


 ただ、医療の崩壊を切実に説く著者の言い分は正しいと感じたけれど、一方で「世論」にはあまり届かないのかもしれないとも思った。ネットの祭も同じだけれど、メディアが叩くときは問答無用にあらゆる側面から叩いてくる。そこでは、「医療の膿を出すことが我々の使命だ」とばかりに、徹底的に叩いてくる。法的な厳罰化や規制の強化も同様で、とにかく「悪い何かを始末する」という発想が先行してしまう。


 そうした考え方は、「悪い人」を処罰しなければ当面の問題は解決しないという一面では当然正しいのだけれど、しかしその一方で、ある手段を選択するときは、常に最終的な目的が何かということを意識していなければならないはずだ。言い方を変えれば、今取ろうとしている手段はいかなる目的に適しているのか、その整合性について考えなければいけない、ということ。


 筆者は多方面からの圧力に堪えられず、「普通の医者」が逃散するという「立ち去り型サボタージュ」という現象を示したが、叩く側はそのことを意識していたであろうか。「悪い何か」を退治した後に、いつも「良い何か」が残っているとは限らない。人間は使命や正義感を持っているのだろうけれど、仏じゃあるまいし、損得で動く気持ちだって当然ある。使命感よりも損得で動く人を誰が責められるのだろうか。そういうときに「医者のくせに・・・」とか「看護師なら・・・」とか、酷い場合は「昔だったら・・・」、などとひとりよがりな価値観を持ち出してきて、理念から人を規定しようとする考え方は明確に間違っているのだ。医療を公共財として維持していきたいのならば、そこで働く人達を守る社会システムを考えなければならない。誰が考えなければならないか、って、公共財なんだから本来は政治が取り組むべきだし、それはつまり国民が「我々の」重要課題とみなすようにならないといけないのだろう。お医者さん、看護師さんにただ「頑張って」「ちゃんとしてね」「責任とってね」と言うだけで、医療システムは維持できるだろうか。


 医療事故は、減少するほうが良いに決まっている。故意は論外として、重過失の者も処罰されなければならないと思う。それでも、厳罰化が全てを解決するわけでは無いのだ。そういう意味で、慈恵医大青戸病院事件に対する著者の意見には必ずしも同意出来ないが、この本の基底を流れる全般的な考え方について、私は心から賛同する。




 著書から刺激を受けて個人的に考えたのは、「公共財(のようなもの)」の性質について。公共財であるところの「みんなのもの」は、「私だけのもの」では無く、かつ「私のもの」である。そのサービスを私が享受するのかどうかは分からないけれど、いつか受けることになるかもしれない。だから、その費用は「みんな」でお金を出し合わなきゃいけないし、当然「私」もそのコストは負担する。しかし、いざそのサービスの享受を「私」が受けるとき、公共財は「みんなのもの」であり続けることが出来るのだろうか。


 享受する者は、「これは私が金を払って手に入れた所有物である」と思ってしまうのではないだろうか。公共財のコストは皆で負担していることから考えると、個々人が支払っている金額は本来の対価以下しか支払っていないはずなのだが、本人はきちんとコストを負担してきたという思いがあるので、「私はちゃんと金を払っているんだ」という意識になっても不思議ではない。そのとき、公共財の享受を、その公共性ゆえの限度内で享受する、ということは非常に困難なのではないだろうか。つまり、公共財については、コストの負担分を超えたサービスを要求してしまう傾向がある、という本質的な問題があるのではないだろうか。


 ここまで書いて気付いたけれど、これは公共財というよりも保険システム全般に当てはまることか?いずれにせよ、医療におけるコストとサービスは、どうしても釣り合わない要求(後者の要求が常に前者の負担を上回る)を受けざるを得ない。しかもそのサービスの内容が生命や健康であれば、その要求を下げることは非常に困難だろうし、もしも誰かが「患者のエゴ」と批判したところであまり意味はないのではないか。・・・うーん、良く分からなくなってしまった。とりあえずここまで。

*1:これまで読んできたのはブラックジャック陽だまりの樹ブラックジャックによろしく、Ns'あおい・・・って、漫画ばかりだな。

*2:この記事(http://d.hatena.ne.jp/la-law/20061126)のような、読んで腑に落ちる適切な反論が見たい