雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

大相撲と朝青龍の問題について

 横綱朝青龍が、巡業というファンへの感謝を示す為のイベントを休んで、モンゴルでサッカーをしていたそうだ。これはファンへの裏切りであり、横綱としての品格を貶める行為であり、大相撲全体への背信行為である、ということでかなり厳しい処分を受けた。事実上の引退勧告とも評されている。

 

 ドルジファンの私としては、暴挙である、ふざけるなとまずは言いたいところだが、大相撲そのものについて考えてみると、何だか根本的な問題点があるように思えた。


 とりあえず、今回の処分について想定される相撲ファンの反応は次の4通りくらいだろうか。ちなみに私は、心情的には1である。(修正)ファンとして感情的に言うことが許されるなら1なのかな。

  1. 朝青龍絶対主義朝青龍は強くて魅せる相撲を見せてくれるし、スポーツ万能だし、しゃべらせても面白いし、これまで1人横綱として活躍して相撲界を支えてきたので、何をしても許されるべき存在なのだ。今回の処分を決定した相撲協会は馬鹿で無能としか言い様がない。
  2. 勝利至上主義:別にプロスポーツプレーヤーにファンサービスなどいらない。年6回のトーナメント戦で強ければ、それで良いのだ。今回の処分はやり過ぎであり、本来ならプロとして減給処分で収めるべきだ。休場を命じることのメリットはどこにも無い。
  3. 中庸主義:ファンサービスを怠ったことは問題だし、サッカーをしていたのは軽率だと思うので、ある程度の処分は仕方ないのかもしれないが、朝青龍の人気を考えると今回の処分は重すぎるのではないか。朝青龍も反省して、早く復帰して頑張って欲しい。
  4. 大相撲保守主義:相撲は伝統文化であり、日本の国技である以上、横綱には品格が求められる。そもそも朝青龍は従来から言動に問題があり、今回の処分(事実上の引退勧告)も単にサッカー事件の反省や改善を促すものではなく、「横綱とは何か」、「相撲とは何か」、という観点から朝青龍の追放を決めたものである。

 つらつらと考えるに、相撲は伝統文化であり、かつプロスポーツである。どちらの要素が欠けても、現代の相撲は存続し得ないだろう。


 まず、相撲は何よりも伝統文化であるから、髷を結い、裸にまわし一丁で戦い、がっぷり四つに組むのが好ましいとされ、1日2食のちゃんこを食べ、様々な形式を守り、女性は土俵には上がれず、神社で土俵入りを奉納し、そして横綱には品格が求められる。それらに論理的な理由があるわけではなく、「相撲とはそういうものだから」ということだけが全ての根拠となる。時代に合わせて変えてしまうと、相撲は相撲でなくなってしまうのだ。つまり、変わらないことこそが相撲の魅力であり、「売り」なのだ。


 しかし一方で、現代の相撲は勝利を目指すことが第一目標であるプロスポーツだから、(国技なのに)外国人でも強ければ横綱になれるし、(神聖なのに)土俵上でのコマーシャルが許されるし、(伝統文化なのに)品格に欠ける者でも一定数勝てば昇進できるし、(がっぷり四つに組むのが相撲なのに)張り手や引き落としなどの醜い技が許されている。


 結局、相撲にはその哲学が無いのだ。明確な路線を定めずにふらふらとしているうちに、矛盾だけが膨らんでしまい、良く分からない何かになってしまったのだ。相撲の存在理由は伝統を守ることにある、と明確な方針を打ち出すならともかく、今回の事件の根本的なところを放置したままで、トッププレイヤーであり最大の集客効果を持つ朝青龍を手放してどうする気なのか、全く理解できない。


 相撲自体、これまで経営危機に陥ったいくつかの時代を経ているので、生き残るために色々と考えてはいるのだろうが、基本的には前途は暗い。おそらくその理由のひとつは、自国の伝統文化に対する多くの日本人の考え方*1であるのだろうから、相撲協会だけを責めても仕方ないのだが、せめて自分の独自性や存在理由くらい見つめなおす努力をするべきなのではないか。朝青龍だけを切って解決、なんてことにはならないと思うけど。


 最後に、気になる記事を。


 モンゴルの大使館が謝罪するとはびっくり。「相手は国家だし、相撲協会もここは相手の顔を立てたほうがいいんじゃないの」、などと思ってしまう私は気が弱いのだろうか。それと、日本の外務省は今回の事件をどう考えているのだろうか。ちょっと気になった。

*1:わが国の伝統文化で力強く生き残っているものがどれだけあるというのか。日本人は自国の文化を大事にしない、と言って良いだろう。もしかしたら、新しいものを生み出し続けることが日本文化の特徴なのかもしれないけれど・・・。