雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

死の棘

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)


 読むのに苦労した本だった。楽しくないし、暗いし、先が見えないし、不毛だし、悲惨な展開なので、読むのに気力が必要なのだ。それでもこの本は、「ある経験」を経た人には、息が詰まるほどの共感と切なさを抱かせるだろう。読み進めていくと、何度も何度も涙ぐんでしまうはずだ。そして、必ず最後まで読み進めてしまい、解説を読んで「物語の、その後」を知り、深く内省してひとつの哲学を得るはずだ。


 何故こんなことが言えるのか。それは、この本には、男女の愛のひとつのかたちが描かれているからだ。さわやかさも、若々しさも、夢も希望も無いが、それでも痛々しいほどの愛情は存在するのだ。もしかすると、登場人物の夫婦は共依存の状態に近いと言えるのかもしれないが、しかし愛情から依存や執着といった概念を取り去ることなど出来ないだろうと思うわけで。


 他人と付き合うには、強い覚悟が必要だ。同時に、自分の過去と向き合い、受け止め、そのときとは異なる「今の自分」を生み出す持続的な決意が求められる。と、言葉にするのは簡単なことだが、現実の人生はそれほど甘くない。この本の主人公には、覚悟も決意も完全な状態では持ち得なかったが、それは決して愚か者というわけではなく、むしろそれは人間的というべきなのだろう。つまり、誰でもこの本に描かれている二人のどちらにでもなり得るということだ。


 生きることこそが悲劇だ。というひとつの真実に対して、ニーチェはそこに虚無と、それから永劫回帰を見出した。「そうか、これが人生か。それならばもう一度!」と。そして『死の棘』には、愛することこそが悲劇だ、と書かれている。読者がこの本を読んで、「不毛で悲惨なスキャンダル」とか「発狂状態を描いた泥沼夫婦関係」とだけ認識して遠ざけてしまうのか、それともそこに限りない愛情(と、だからこそ苦しむ夫婦)を見出し、「それならば、もう一度!」と覚悟と決意をもつのか。もしかしたら前者の態度の方が幸せな人生を送れるのではないか、という気もするのだが、後者を選ぶ人間には、例え一般的な幸福から遠ざかる人生を送ることになるとしても、決してぶれることのない独自の強さを得ることが出来るのではないだろうか。


 ふと思い立って、ブルーハーツの『リンダリンダ』を聴いてみる。聞こえてきた歌詞の意味が、前とは少し違ったような気がした。