雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

 どれだけ大きな事件が起こったとしても、その事実自体では私は悲しくもならないし、怒りもしないし、喜びもしない。私の感情を動かすのは、ある事件に関する事実そのものではなく、私が事前に持っていた「こうであってほしいという願望/こうであるべきだという思い込み」と事実とのギャップなのではないだろうか。私の感情が動いて初めて、日頃から抱いている自身の願望に気付くことになることは案外多い。そして、こうした願望と事実のギャップに感情が大きく動くということは、精神的に結構疲れることでもある。


 具体的にはこういうこと。誰しもきっと、「あの人(Aさんとしよう)が死ぬと悲しい」という想いを持っているだろう。しかし、全くの他人にとっては「Aさんの死という事実」は何の感情ももたらさない。それは「Aさんに死んでほしくない」という願望がそもそも無いからである。もちろん隣で悲しんでいるBさんへの共感は抱けるけれども、やはりAさんの死という事実自体には悲しくならない。どれだけ重大な事実だとしてもそれ自体に人間の感情を動かす力は無い。悲しみという感情は、「起きてほしくない」事実が起きてしまい、私の願望を打ち砕いたから生まれたのだ。


 上記のことを踏まえたならば、「心の平穏を保ちたければ期待をしないことだ。期待さえしなければ失望することも無い。」という考えは、理に適っていると言えるだろう。しかし一方で、それは人間の幸福にはあまり役立たない思想なのではないか、とも思う。例えば上記「期待」を「挑戦/信頼/所有/付き合う」に、「失望」を「失敗/裏切り/喪失/別れる」に置き換えたりしてみれば分かるのだが、デメリットを考えて「(そのデメリットを本質的に含んでいる)欲」を抑えていては人生は送れない。人間はそれほど合理的には作られていないはずだ。何かを望み、それが叶わずに悲しむ、という経験を繰り返す中で少しずつ願望を世界に適合するものに変えつつも、それでも望まずにはいられないのが人間であり、それはひとつの定めなのではないかと思う。


 もっとも、初めから望むこと自体に問題があるケースも多いだろう。依頼心が強すぎるために、他人や組織に自分の都合の良いことばかり望んでしまい、裏切られたと言って悲しむのは馬鹿げている。だから上の段落でも「経験を繰り返す中で少しずつ願望を世界に適合するものに変えつつ」と書いたのだが、ここが非常に難しいところだ。正直なところ、私はこの類の経験が不足しており、だからいつも独りで不幸ぶってしまう。悲しみという感情はとても疲れる。最近は少しうんざりしてきたので、いい加減どうにかしたいのだけれども。