雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

人生の答えはいつも私の中にある

上に書いた高揚感の理由は、ここ数日この本を読んでいたからか?ポジティブな方向への変化を求める自分がいて、自己啓発本恐るべし、だ。

人生の答えはいつも私の中にある

人生の答えはいつも私の中にある


内容は、「人間は完全なものだから、不足を恨まず、他者をねたまず、幸福に生きていこう」というようなことを400ページに渡って書いてある。ポジティブ。以後、感想のようなもの。



人間は完全であるという筆者の考えにはどうしても賛同できなかったので、もう前提からつまづいてしまったのだが、それでも読むべきところはたくさんあった。例え人間が不完全なものであったとしても、その欠点ばかりに目を向けていては幸福に向かうことはできないだろうし、外を見ていても自分らしさは見つからないだろう。そして、欠点を補おうとする態度自身は良しとしても、それが「苦労や努力をありがたがっている」状態になれば危険信号だ。苦労の先に必ず幸福があるなんて、神話だ。ある短所が異なる観点からは長所とみなされることがあるように、苦労/困難/難関といった類は、より大きな視点から見ると幸福への転換点になるのではないか。「このまま進んでも、幸福にはなれないのではないか」という「気付き」なのだ。世間的にはそうした発想を「逃げている」と言うのだろうけれど、私はそうは思わないし、世間にどう言われても構わないじゃないか(決断もその結果も、全ては自分自身が負うべきことだ)。現在を否定して、「苦労」というトンネルを抜けないと「明るい未来」に出会えないなんて、いまどき誰が信じるんだ。「現在の問題」は必ずしも解決すべきものではなくて、「前提を疑う」きっかけなのかもしれない、ということ。


次に、現在と過去について。私達は、過去の正当性を主張するために現在の時間を無駄に費やしてはならない。「現在どうありたいのか」という視点で考えたらすぐに解決できる事項を、「過去どうあるべきだったか」という視点で考えても、新たな問題を生むだけだろう。無論、こだわるべき過去の事項もあるのは確かだけれど、それはそんなに多くは無いんじゃないだろうか。人生は有限で、だから人は常に優先順位をつけなくてはいけない。大事なのは結果なのか、過程なのか、それはア・プリオリには決っておらず、その都度判断すべきことなのだ。そして過去に関しては、そこからの贈り物(事実や教訓、もしくは成長)を受け取ったら、祝福のうちに手放すべきものなのだろう。


最後に、自分を貶めてはならないこと。謙遜は傲慢で嫌味な慣習であり、自己嫌悪は悪趣味なマスターベーションだ。まずは自己をありのまま受け入れること。他者からの賞賛を感謝の意を持って受け入れること。大切なのは、自らが幸福に生きることを許し、自己が幸福に生きられることを信じること。そして幸福に繋がらない生き方を捨てること。
同様に、他者を祝福すること。他者の幸運は自分の不幸ではないし、友人が宝くじに当たったのは、自分の幸運を吸い取られたからではないのだ。