雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

終戦記念日

昔、とあるドキュメント番組を見た。内容は、ある国の「開拓者」についてとりあげたもの。その国には、当然ながら先住民がいて、彼らの社会を作り、文化を継承して暮らしていた。そこに「開拓者」がやってきて、その国を「発見」して、武力を持って先住民を征服して、そこに「国を作った」。そして現在、その国には開拓者と先住民が共存しており、それほど深刻な争いは無く、なんとかうまくやっている。


そしてここからが本題だが、その番組におけるテーマは、その国の「偉大なる開拓者」達の現在における扱いであった。開拓者の子孫にとっては、彼らは英雄であり、現在の繁栄について感謝をすべき、偉大なる祖先である。しかし一方、先住民の子孫にとっては、彼らは侵略者であり、自分達の先祖の殺害者であり、過去の恨みをぶつけるべき存在でしかない。そんな2つの思いが並存する中で、「偉大なる開拓者」達の墓、そしてそこで毎年開かれる開拓者の子孫による祭礼をめぐる思想、出来事を追う・・・という番組であった。


何故私がこんなことを書いているのかと言えば、もちろん日本帝国の戦死者を弔うことの難しさを考えるからである。まず、子孫が先祖を弔うことは、それほど変なことでは無いはずである。親は子が生きていることに感謝し、子は自らの存在が親なくしてはありえないことを知っている(世代間は縦軸で捉えたとき、世代間相互に対等関係の感謝と畏敬の念を持つ)。であるならば、子孫が先祖に感謝の意を示して祭礼を行うことは全く不思議ではない(近年は「子孫のために」という発想が乏しいように思うが、蛇足)。例え先祖が賎民だろうが盗人だろうが人殺しだろうが、子孫にとってはその人があってこそ自分がいるわけで、どうしても畏敬の念は消えない。


だがしかし、子孫Aにとっての「偉大なる祖先」が、他の民Bにとって憎むべき対象であった場合はどうすべきなのだろうか。Aが墓参りをして、感謝の意を示すことがBにとっては不愉快な、過去の憎むべき出来事を子孫が肯定しているかのような行為に見えた場合はどうなのだろう。Aが止めるべきなのか、それともBが理解すべきなのか。おそらく簡単なのは前者なのだが、AとBにとっての未来志向の「和解」とは後者を指しているのではないか。後者のためにこそ、Bに理解してもらうためにこそAは言葉と誠意をもって対話をするのではないだろうか。


靖国問題は、どうも単なる外交カードとしてしか扱われないようになっている気がするが、それ以前の問題として、自分が先祖にどう向き合うかを考えておきたかった。個人の感情的な問題と国家間の政治問題は別次元のことであるのは分かっているつもり。