「私達は何一つとして所有することは出来ない」
土地であれ、モノであれ、時間であれ、いや、自分自身の身体ですら、ましてや他人を「自分の思い通りにすること」など出来やしない。この考え方は、現在ごく普通に意識されている所有概念を否定するものではなく、それが単に「約束事」に過ぎないことを意味している。約束事というのは、特定の長方形の紙片を「お金」と呼ぶようなもの。それはそれでいいんだ。便利な約束事をうまく活用して社会を動かすのは偉大な知恵だ。
普段は、それが単なる約束事に過ぎないことを忘れて生活していけるし、第一そんなことを常に意識していられるほど私達は暇じゃない。ただ、時々「事実」に直面してぼんやり考えてみたりもする。それだけのこと。
所有は、出来ない。ここから導き出されるのはどんな生き方だろう。「何も求めない」というあたりに落ち着くのではないだろうか。求めなければ失わずに済む、どうせ所有できないのだから、と。
しかし、私達は色々なものを求めてしまう。それはおそらく、「所有できる」と信じているから。「人は、決して手に入らないものを求めることは無い」ってやつと同じ意味ですね。ただ、それは仕方が無いじゃないか、とも思う。「何かを求める/欲しがる気持ち」を否定してどうしようって言うんだ。生きることは欲することだ。
ここで、「手に入らぬものを求める自分」をどう受け入れるのか、という問題が出てくる。これに対する私の考え方は「求めることそれ自体に幸福を感じ、たとえ一瞬でも対象との距離が限りなく近づいたことに感謝する」である。そもそも対象は所有できず、かつそれは時と共に失われてしまう。にも関わらず欲することを辞められないのであれば、自身の行動の虚しさをも含めて受け入れてしまえばいい。
欲しいと思えるものが存在すること、それと自分との距離を近づける努力が出来ること、そしていつか離れてしまうその日まで一緒に生きられることに感謝するんだ。やがていつか対象が失われて私が「事実」と向き合う日が来るが、その時だってそれまでの思い出にたっぷり浸って幸福を感じていればいいのだ。
・・・と、まあ常にそんな心構えでいたいものだなあ、と思ってはいるのだけれど。なかなかねえ。心底上記の気持ちを持ち続けていれば、例えギャンブルに負けたときも「金は天下の回りだし、仕方ないさ!」なんて思えたりするのだろうか?