雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

雑々とした雑記

以下、直感垂れ流し。
まるでメモの如く。



■文春差し止め
 表現の自由とは無関係。「前例を作るのが恐ろしい」と述べた者は今後、前例
踏襲主義の行政を批判してはならない。

 私人のプライヴァシーを弄ぶ商い事を禁止せよ。公人についても、条件を限定
すべし。芸能人については、まあどうでも良いが、知りたがる人間にこそ猛省を
求める。醜いにもほどがある。



■現状擁護派の諸兄へ
 全面的に貴方たちが間違っているなどというつもりは無い。ただひとつ。こちら
が新しい提案を出し、こういう理由で現状よりもこうした点で優れていると考えま
す、と言っているのに、「しかし、**という制度/考え方にだって〜という良い面
はあるんだよ」という類の反駁をするのはいい加減にやめて欲しい。それが反論
になっていないことになぜ気付かないのだろうか。

 ついでに。改革/改善意見には粗が多いことは事実である。それは認めるけ
れども、その欠点を見つけることに懸命な間抜けがなんと多いことか。嗚呼。



■日常/非日常
 非日常の出来事は、非日常的雰囲気の中で感じ、また理解されるものであり、
日常世界に居ながらにして記述することは難しい。つまり、旅日記を書くなら
さっさと書け俺、ということだ。



■義務教育留年制
 もしも義務教育というものが国民にとって(ひとつは国家繁栄のため、もうひとつ
はまさにその人間がより良く生きるため)身に付けなければならないものであり、
国家として/社会として、その習熟に対して知恵と時間とお金と労力をかけるべ
きものであるならば、留年制度は有効に活用されて然るべきものであるはずだ。


 家庭教師で子どもを数人見てきたというごくわずかな経験から語るならば、高
校受験時において成績の低い者は高確率で「算数」や「国語」、つまり小学校で
習うべき事項が理解できていない。大事なのは基礎学力であり、それをなおざり
にしたまま「進級」させてやることは思いやりではなく、ましてや愛情ではなく、
それは単なる怠惰である。教育の目的が国家繁栄と個人の幸福にあるならば、
大切なことは「落ちこぼれを作らないこと」ではないだろう。留年制度を活用する
こと、しかも大規模に。根拠の無い個人的な予測としては、中学卒業までに2割
弱くらいの生徒が一度は留年を経験しているくらいがバランスが取れていると思
うのだがどうか。ちなみにここで断っておくが、筆者は浪人も留年も経験している
由緒正しき落ちこぼれである。


 義務教育ついでに述べよう。日本において「ゆとり教育」が求められたのは
日本が経済大国として悠々としていた(景気が良かった)からであり、そして
ゆとり教育」が批判されているのは今現在不景気だからである。くだらないね。
で、提案。学力の低下をもたらさずにゆとりを生み出す方法があると思うのだ。
それは、数々の行事を無くすこと。儀式と、イベントと、クラブ、まずこの3つを
無くそう。


1:儀式:例えば卒業式。卒業式自体が不要だと個人的に考えているけれども、
それはともかくあれほど頻繁に行われた「卒業式の練習」は一体誰にとって
必要なものなんだろうか?
2:イベント:文化祭音楽祭体育祭は不要。もっと淡々と日々を送ればよい。修学
旅行も不要(勝手に友達と旅すりゃよろしい)。非日常とは決して他者(先生)が
与えるものではないのだ。
3:クラブ、部活動:このために子どもと教師が費やすエネルギーを考えてみて
ほしい。部活を廃止して、子どもの活動を地域に帰せ。さすれば大人の娯楽と有
機的に繋がるはずだ。

・・・と、以上3つの見せ掛けの教育を辞めるだけでどれだけの「ゆとり」が生ま
れることか。