雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

私が十代を過ごした家が処分されることになり、自分の部屋を片付けに行った。
急な話だったので
1日目:仕事@関西、夜行バスで新宿へ
2日目:部屋の片付け
3日目:部屋の片付け、新宿から夜行バスに乗る
4日目:朝、到着して、8時半から出勤@関西
という強行日程になってしまった。さすがに4日目の仕事は辛かったな。



たった2日間で10年間の記憶を処理するのは大変だった。
甘い記憶と戯れ、苦い経験に呻き、恥ずかしい過去は、ま、放っておいた。
とにかく、ひたすら物を捨てた。老後の娯楽なんてことは気にせず捨てた。
そして、物を捨てる度に、記憶は蘇っていった。


捨てるということには予想外の効果があったのだ。
記憶は、捨てることによって鮮烈に蘇り、今の私に刻まれた。
時が経って、いつの間にか忘れて消えてしまうのではなく、
自らの手で捨て去ってしまうことによって刻まれる記憶。
懐かしさ、恥ずかしさ、喜びと悲しみと。




さて、今回の目的は、自分の部屋の物を処分することであった。
私は、モノも記憶も全て処分しようと考えていた。
忌まわしき過去を捨て去れば身軽になれるような気がしていた。
ただ、あるひとつの事項に関しては、過去の自分を再発見、再評価して、
翻って現在の自分を反省し、そして過去の自分と和解し、溶け合う結果となった。



それは浪人時代についてのこと。
当時の私にとっては大学受験というものは世界の全てであった。
「価値」や「意味」はその狭い世界でのみ成立していた。
目指すもの、すべきことは閉ざされた世界の中では限られていた。
そして私は自己中心的に振舞い、周囲の支えを当然のものと考え、
行わなければならない、とされることのみやっていた。


無論、終わってみれば反省だらけだ。
己の世界の狭さ、傲慢さ、無知、無能、悔いることはいくらでもある。
だからこの時期は私の恥部として、なるべく思い出さないようにしていた。
センター試験の時期になると、いつも決まって悪夢を見ていたさ。



しかし、今回、部屋を掃除していて考えが少し変わった。
当時の時間の流れに沿って追体験していく中で、その時の想いが超現実的に
蘇り、私は過去の自分と向き合って記憶を整理することが出来たのだ。



・・・当時の私にとって、目標は遠大で、絶望的であった。
・・・そして視野が狭かったからこそ、集中と努力が可能であった。
このように過去を捉え直し、灰色に染められていた過去がその鮮やかな
原色を取り戻していくのに伴って、私は奇妙な体験をすることになった。



まず、こうして整理された過去の事実は、曖昧で漠とした不安に包まれた現在を
激しく責め立てた。今の自分には、過去の自分の愚かさを笑う資格が無いと
反省した。自分が「成長」してきたなどと考えていたのは誤解であり、単に
醜い異形がそれとは異なる醜さを持つ異形に変形していたに過ぎないのだ。
時間が流れているのではなく、単に私がもぞもぞと動いていたに過ぎないのだ。



ところが、こうして落ち込んでいる一方で、不思議なエネルギーというか、
高揚感とでも言うべきか、奇妙な感情が起こってきたのだ。例えるなら、
鬱の山を越えて帰ってきた時に感じる衝動。筋肉で言うなら超回復か?
以前より自分を好きになれた、ということではなくて、醜い自分を受け入
れることによって開き直れた爽快感?・・・実際のところよく分からないの
だが。



それって結局「自分探し」でしょ、と言われると、多分その通りですごめんなさい、
と謝るしかないのだけれども。それでも、少なくとも、過去と現在が続いている
ことを実感できたように思えるのです。そしてこの連続性の実感は、私が生きる
ということにおいて、決定的な重要性を持つような気がしてならないのですよ。