とある音楽堂の内部を見学させてもらった。
舞台に上がり、説明を聞きながら、ふと客席の方を向く。
私は、上部からふりそそぐ圧倒的な照明と、
目の前の広大な客席に包まれた。
そして私は思いを巡らす。
嗚呼、こんな世界を体験している人がいるのか、と。
なんと輝かしく、華やかで、刺激的なことだろう!
想像しただけで、膝が震えるような興奮だ。
と、同時にこうも思った。
・・・私は、きっと一生、この世界を体験できないまま死ぬのだ、と。
プロ野球の選手にも、あれにもこれにも、もうなれない。
歳を取ると、可能性を失う。
ある選択をすることは、他の選択肢を切り捨てることでもある。
そうしてこの歳になり、選び取った己の状況に、果たして私は満足しているか。
否、などと言いたくはないが。悔しい。自分で選んだ道なのに。悲しい。
では、どうすれば、私は満足するのだろう。
不満が無い、なんて状況など、ありえるのだろうか?
そもそも明確な夢や希望を形成できなかった自分が、
後々後悔するであろうことは、ほとんど必然だったはずだ。
「可能性を広げて」、「潰しが効くように」なんて考えは必ず破綻する。
なぜなら、人は歳を取り、可能性は狭まる一方だから。
だから、人はある目標を定めて突進して、達成したり、敗れたりしたら、
また新たな目標を定める。私も、そう生きるべきだったのではないか。
何かに熱中している人を冷笑していた愚かな私が悔やまれる。
感情的に文章を進めると散漫なものになってしまうな。
話を戻そう。
問題は、「では、私はどうすればよいのか」である。
もう就職をしてしまい、それなりに歳を取り、そのくせ今まで努力を
積み重ねて来ていないから、資格も、特別な能力も人脈もない。
だから、あまり大層なものは、望むべくもなかろう。
しかし、最も大事なのは、私がどうしたいのか、だ。
自らの本音を引き出せ。全てはそこからだ。
もう、偽善も、奉仕も、周囲の期待も、関係ない。
自分の人生を全うするためにも、やり直すのだ。
私は何でも出来る、とまでは思わなかったけれど、
自分にはもっと色々な事が出来るはずだ、と、つい最近まで思っていた。
気がつくと、何も出来ていない自分がそこにいて。
でもその現実は、もう受け入れるしかないわけで。
理想と現実のギャップには、苦しまざるを得ないけれど、
私の出発点は、いつもそこにある。
鬱は、生みの苦しみである。
今の苦しみを肯定することだ。