仕事中にその事実を知った。
友人Sからの電話だった。
電話中も、その後も、私は呆然としていた。
知人(A)が自殺したということを、きちんと認識出来なかったのだ。
午後5時30分、業務終了、「Aのところ」へ向かう。外は雨。
実際に死体と向き合うまでは、半信半疑だった。
電車の中では、「きっと性質の悪い悪戯だろ」って思ってた。
・・・そう思いたかっただけなのかもしれない。
心身共に疲れていたのか、電車を乗り換えるときに傘を置き忘れてしまって。
私は、雨に濡れながら、行きたくないところへ向かって歩いた。
通夜の場で、Aの父親を見つける。
情けないことに、混乱していた私はろくな挨拶も出来なかった。
語るべきことばを持っていなかったからだろうか。
他の友人とも、会釈で済ます。
棺の中に眠るAを見て、触って、その死を確認してしまった。
あの、絶対的な冷たさは、祖父の時と同じだった。
とても、とても冷たかった。
ああ、Aは、死んでしまったのだ。
「この人は、もう生きていない」ということが悲しくて、泣いた。
ただ、こんなときでも、私のこころはねじれていた。
もうAと会えない悲しさから泣いたのではなかったのだ。
私は「自分が死ぬことに怯えて」泣いていたのだ。人の通夜の場で。
鬱が重かった時のことを思い出していた。
・・・もしかしたら自殺したのは私だったのかもしれないよなあ。
・・・私が臆病だから死ねなかっただけで、その可能性は十分にあったんだよ。
そんなことを考えていたら、なんだか怖くなって、
そして自分がいつか必ず死ぬことを再認識させられ、怯えて泣いた。
生きることも死ぬことも嫌になって、どうしようもなくなって泣いた。
そして「幼稚園の頃に戻りたいなあ」とつぶやいて、すぐに自己嫌悪する。
その言葉は何の価値もない、現在を否定するだけの、恥ずべきものだったから。
無知で、無力な私がそこにいた。
通夜の最後、Aの父親の言葉が忘れられない。
「ひとりの親として皆さんに言わせていただきます。
―どうか、自分の身体を傷つけないでください」
この言葉を聞いて、心の中でAの父親に詫びた。
何故かは分からないが、申し訳ないという気持ちで一杯だったのだ。
・・・翌日も、私は仕事に行った。
まるで何も起こらなかったかのように。