雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

自分を受け入れることと、向上心を抱くことは、両立する。

 人と会って話をしたり、仕事をしたり、街中を散歩してみたりする。どこかに必ず誰かがいて、私はその人と関わることになる。そんなとき、私は少なからずストレスを感じる。もちろん、他人がいてくれるからこそ体験できる、楽しいことや嬉しいことも知っているけれど、他人と関わることで生じる不安や怖れなどの負の感情も結構ある。それも、かなり根深く。今日、自分の持つこうした感情の、ひとつの側面が理解できた気がするので書いてみようと思う。



 結局のところ私は、人に嫌われたり、怒られたり、馬鹿にされたり、ダメなやつだと思われたりすることが嫌なのだ。そして、そうした思いこそが、私を無理に束縛し、不安や怖れを抱かせているのだ。



 上に書いた思いは、裏を返せば、人に良く思われたい、褒められたい、大切にされたいと思っている、ということでもある。それ自体は、それを否定しても意味が無いと考えられる程に自然な、人間的な感情だろう。しかし、そうした感情は、「自分のありのままよりも良く見られたい/思われたい」という思いに容易に変化してしまい、結局は自分を苦しめることに繋がる。


 「ありのままの自分より良く見せたい」と思っても、報われることはない。そのような思いは、「私を理解して欲しい」という思いとは似て非なるものであり、自分が自分自身を受け入れることにも、そして自分を向上させることにも結びつかない。そんなことに、ふと気付いた。



 具体的に、「怒られたくない」という気持ちについて考えてみよう。私は人に怒られることが特に苦手だから。


 怒られることは、とても嫌なことだけれども、しかし、怒られるのは自分が他人を怒らせることしたからだ、ということを否定することは出来ない*1。であるならば、「結果として怒られること」は、受け入れるしかないのではないか*2


 彼/彼女が私のミスを指摘していて、その通りだと感じたなら反省するべきだし、また、私が彼/彼女に迷惑をかけているのなら、適切に謝罪するべきだ。そうしたときに「結果として怒られること」は、受け入れざるを得ないのであり、受け入れる態度を取る(または覚悟を決める)ことこそが「あるがままの自分を受け入れること」であり、結果として怖れや不安を追い払うことになるのだ。


 怒られることを怖れて受け入れられずにいると、いつしか「怒られないこと」や「ミスをしないこと」が行為の目的になってしまう。しかし、それらを行為の目的にしてはいけない。何故なら、それは行為の本来の目的を見失わせるから。それでは本来の目的とは何か。これは結構単純で、「私がそれをしたい/した方が良いと思ったから」である。例えば、人を喜ばせることであったり、自分の力を発揮することだったり、もしくはただひたすらに楽しいことであったりと、そういうことであったはずだ。それがどういうわけか、いつしか「怒られないこと」や「ミスをしないこと」が目的に変わってしまう。時と場合によってはそれが避けられない事態もあるだろうが、それが恒常的である場合、それは不幸なことだろう。何故なら、私達はミスを犯す人間であり、「怒られない」という目的を達成することは絶望的だからだ。達成が不可能な目的を掲げて自分を束縛することは、とても不幸なことではないか。



 ここまで「怒られたくない」という思いだけに絞って書いてきたが、「嫌われたくない」でも、「ダメなやつだと思われたくない」でも、同様である。他人に、ありのままの自分以上に評価されたいと願う気持ちはすべて破綻する。自分の負の部分を隠したり飾ったりするよりも、むしろ、他人にそのように思われる自分をも受け入れて、かつそのときに味わう嫌な思い(屈辱や後悔、嫌悪感)をかみ締めて、そこを出発点にして「ではどうすべきか」と今後の在り様を考えていくべきだろう。


 「欠点を抱えたまま、しかもそのことを自分で意識しないままに、相手には良く思ってもらいたい」、なんて困難なことに挑む必要は無いのではないか。「他人に良く思われること」の手前には、「他人に理解してもらうこと」と「自分自身が良く生きること」という2つの難題が存在し、そしてその手前には「自分が自分自身を受け入れる」という重要な入り口が存在している。

精神的に向上心のないものは馬鹿だ

と、夏目漱石が「こころ」で書いたところの向上心とは、虚栄心とは全く次元が異なるものだろう。ありのままの自分を受け入れることと、向上心を抱くことは、両立すると私は信じる。

*1:もちろん、相手の怒りが何らかの誤解から生じているときは、そのことを分かり易く説明したり、または今後の自分の言動/姿勢/生き様で相手に思い知らせれば良いだろう。

*2:所詮、他人は私の想いも努力も諸事情も分かってはくれない。従って、怒られること自体は受け入れるとしても、その人の怒りの感情の部分までも真正面から受け止める必要は無いだろう。もっとも、怒っている相手が「大切な人」であるなら事情は異なるが。