雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

大衆の反逆

大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

 生はすべて、「状況」つまり世界の内部に自己を見いだすことである。(中略)世界は、われわれの生の可能性の総計である。したがって、世界はわれわれの生と離れた迂遠のものではなく、生を現実にとりまくものである。(43ページ)

あらゆる生は、自分自身であるための戦いであり、努力である。私が自分の生を実現する過程で遭遇する障害が、まさに私の活力と能力を目ざめさせ動員するのである。(121ページ)

 利己主義は迷路である。(中略)生きるとは、なにかに向かって放たれることであり、ある目標に向かって進むことである。(中略)それは、私が生を賭けたあるものであり、だからこそ私の生の外に、もっと向こうにあるものである。私が利己的に私の内部だけを歩こうと決意したら、私は前に進まないし、どこにも到着しない。(183ページ)


 すごい本だ。これが1930年に書かれたとは・・・。本書の内容は現代日本への警告としても十分通用するだろう。逆に言えば、大衆社会の超越は、新しい世紀を迎えても出来ないほど困難なものである、ということか。実際、著者も「こうすればいいよ」という分かりやすい答を教えてくれているわけではないし。


 本書の主人公は「大衆」である。その意味は、「世界」を所与のものとして扱い、「外部」を必要とせずに自己の中に閉じこもり、発展も進歩も目指さない人たちのことである。この大衆が現代に大量に発生した理由は、ひとつは国家が安定した枠組みを確立したこと、もうひとつは科学の発展によって高い技術が普及したおかげで、個人がこれまでにないほどの力と自由を手に入れたことだ。


 著者はまた、「現在」を次のように分析している。「現在」とは、「過去によって規定される後ろ向きの/所与のもの」ではなく、「どうなるかは誰にも分からない/これから生み出される未来」に向かう、その都度の決断の瞬間なのだ。だから、我々の生は、「保守」でも「反動」でもなければ、「安心」も「所与の目的」も伴わないものではずだ、と説く。


 おそらくオルテガは、近代は乗り越えられるべきものであると考えていたのだろう。そして近代を超越したときの世界を、「ヨーロッパの(国民国家の)統一」と「新貴族の登場」に見ていたのだと思う。この処方箋が妥当かどうかはともかく、著者の説く生の哲学には希望があり、未来がある。現代への絶望をのみ偉そうに語る人ではないのだ。


 現代は相変わらず「近代のどん詰まり」なのだろう。けれども、全ての現代人が「大衆」であるはずもない。昨日のようなそれなりに満足できる世界が永遠に続くよりも、未来に対する不安を抱えたまま何とか今日という世界を突き抜けたい、そんな思いを抱いている人は少なくないのではないか。