雑記帳

関西在住の中年男性による日々の雑記です。

様々な場面で他者に対する怒りや不満を感じる。それ自体は、まあどうでもいいことだ。問題は、その怒りが殺意に変わることがある、ということだ。物騒な話なのでなるべく丁寧に記述してみよう。


例えば、電車内にスノボー帰りの男がいるとする。彼は車内で、向かい合う型の4人掛け座席に自らのスノーボード用具を起き、同時に靴を履いたまま足を座席に投げ出している。また、その車内はそれなりに乗客がおり、席に座れず立っている者もいると仮定する。
そんなとき、私は、少なからずその男に対して不満を感じる。その荷物は上の棚に置けばいいし、なぜ周囲の客に構わず4人座席を占領するのだ。しかも靴をはいたまま座席に足を乗せるなど、嫌悪感を持つなという方が無理だ、などと感じる。「怒り」をもつわけだ。ただ、だからといって正面切って注意するほど私は度胸も正義心も無いので、見て見ぬ振りをするだけなのだが。
で、問題はここからだ。そこに赤子を抱いた母親が電車に乗ってくるとしよう。赤子を持って立つ女性と、座席に足を乗せた男性と、比べていると私の感情に露骨な変化が起こるのだ。怒りが、殺意にかわるのだ。いずれもその感情の対象が、同一の男性であることに違いは無い。ただ、感情が殺意に昇華したときには、そもそもの怒りの原因であった事項(電車内のマナーの悪さ)はどうでも良くなっていて、ただその男性が憎くて仕方がなくなっているのだ。「怒り」の時点では男性の行為が許せなかったことに対し、「殺意」の時点では男性の存在が許せなくなっていると言えようか。
そう、私は明らかに、キレている。この落差は一体何か。口頭注意で済んでいたはずの事項が、なぜ殺人に変化してしまうのだろう。無論、上記は全て私の脳内の出来事に過ぎず、想像を行動に移す段階となると、また別の事態となる可能性は高い。しかし今回、逆上していく自身の思考を追ってみて、「手に負えないな」と感じた。暴走する自分の感情を制御できない私の理性。いや、そもそも理性(論理でも倫理でも)に感情を完全に制御する力なんて無いのかもしれない。私の精神が未熟なだけなのだろうか。「キレる子ども」とやらを、私は笑えない。